茗荷
緑が濃く香る夏の日。峠の茶屋で一休みしていた薬売りの隣に、一人の花売りが座った。
目元を覆い隠すざんばら髪に日に焼けたような浅黒い肌、顔はその髪の所為でよくは判らないが、声の調子と身体つきから見て年の頃は男盛りより多少前、二十歳を少し過ぎた位か。
漆塗りの一本歯下駄を差し引いても並みの男よりは背が高く、また堂々たる体躯をしてはいるが、どちらも群を抜いてという訳ではないので、この花売りの存在それ自体は印象に残り難かった。
しかし、男の来ている薔薇色の打掛だけは非常に派手で、強い濃淡の中に金や銀の刺繍で丸に井桁の紋が所狭しとひしめき合っている様は少々異様にも見える。
また光の加減がそうさせているのか、時折それが布の中で蠢いている様にも見え、遠目から見れば派手な打掛は近くで見るとなにやら不気味な雰囲気を醸していた。
そんな花売りと艶やかな薬売り。二人が揃えば茶屋に寄らず道を行く者も、一度は振り返ってしまうのは致しかたないのかもしれない。
「 おや これはこれは 花売り殿 」
「本日は『ハナ』を売りに。参りました」
尤も当人たちは自分たちの姿形格好などはなから気にした様子もなく、各々茶を飲み、団子を注文していたのだが。
「 それは 何処に咲く どのような 『ハナ』 ですか ? 」
一息ついた薬売りが問いかけると、花売りは獣のように縦に切れた瞳孔で峠の先を見つめ、ゆっくりとした仕草で視線を下げた。
「先に行った街に。坂井という御武家様の屋敷が御座います。先日。其処に大きな『ツボミ』を見付けまして」
足元に置いた小さな籠に被せてあった布をを取り、山のように入っていた濃い紅茶色の粒を二つ三つ無言で差し出すが断られて、少し残念な表情で膝の上に転がした。
代わりに腰に差していた先が八つに裂けた大きな葉を団扇の代わりにして、汗一つかいていない様子で暑さを孕む空をぼうっと見上げる。
「 おや 珍しい まだ蕾ですか 」
「未だヒトには手を出さず。という意味合いに於いてですから。一寸突けば直にでも咲いて仕舞いましょう」
花売りは団扇を片手に、出された団子を齧り、薬売りは茶を啜る。
蝉が喧しく最期の鳴き声を上げる中、二人は涼しげな顔で会話を続けた。
「 随分と曖昧な ものですね 」
花売りの手が二本目の、団子の刺さった串を差し出すが、男の顔は左右に振られる。
「 せめて 『ハナ』 の名くらい 調べて来て 欲しいものです 」
「以前にそうしたら。クスリウリ様。怒ったじゃあ。ありませんか」
団子を皿に戻し、代わりに茶碗を取った男を横目で眺めながら、薬売りがとぼけたような声で返した。
「 そう でしたっけ 」
大きな薬箱の中から天秤が一つ、ふわりと飛んできて、紫色の爪先に止まる。
その指が軽く上へ動くとそれは花売りのつむじの辺りに飛んで行き、くるくると回り始めた。
「天秤投げて。寄越したじゃあないですか」
「 そう でしたっけ 」
「『カタチ』を調べて直にお知らせしようと傷だらけの体に。鞭打って売に来たあっしに」
褐色の指が天を指し、それに応じるかのように天秤が頭の上から指の先へと飛んで来る。
「天秤で額に穴開けたじゃあ。ありませんか」
「 そういえば そんな事が あったような なかったような 」
なんとも面倒臭そうに台詞を呟いた男に、花売りは無言で指先を動かし、天秤を空へと舞い上がらせていた。
ややあってチリチリと鳴る鈴の音が止み、白い蝶のような天秤は花売りの視界から消える。
「もしやクスリウリ様。ミョウガでも。沢山お取りにでもなりましたか?」
「 茗荷なら 花売り殿の籠の中に 山のように あるじゃあ ないですか 」
「あっしは元々阿呆で木偶の坊ですから。此れ全部を腹の中に入れて今更物忘れが一つ増えたくらい。どうということはありません」
膝の上から香りを放つ小さな粒を摘み、口の中へ放りこむと、茗荷独特の何とも言えない味が広がって花売りの表情が綻ぶ。
「しかし。クスリウリ様が『ハナ』の『カタチ』をご所望ならば。今からでも?」
「 そこまでする必要は ありません よ 」
「左様で」
二本目の団子をもう一度差し出し、もう一度断られた花売りは、少し残念そうな表情でそれを食べた。
何か考え込むような仕草をする薬売りに、花売りは特に困った様子もなく、茶を啜る。
「あっしはクスリウリ様のように『ハナ』に抗う力なんぞ。微塵も持ち合わせてはいません故。あまり大きな『ハナ』や『ツボミ』には近寄りたくないんです」
「 そんな事では 狼の名が 泣きます よ 」
「カラスの下っ端に。胸を張れるような名なんて。ありはしません」
髪に隠れていた尖った耳をしゃんと動かし、読めない表情で淡々と語る花売りに、薬売りはというと眉一つ動かす事無く、彼とは反対側の隣に鎮座する大きな商売道具の箱を眺めた。
「商談に。参りましょうか」
花売りは、ぽん。と団扇で膝を叩き、三本目の団子に手を出し、一口で飲み込んだ。
「クスリウリ様。この『ハナ』買って頂けますかな」
「 それは 判り切っている事じゃあ ありませんか 」
「毎度。ありがとう御座いました」
商談らしきものが成立し帰路に着こうと花売りが腰を浮かすと、紫の唇が緩く弧を描く。
「まだ。あっしに何か?」
「 いいえ 何も …… ただ 頭の上に 」
「頭のうぇ……っ!」
花売りが完全に立ち上がった拍子に襲った痛み。その原因は、丁度その頂点で待ち構えていた天秤に、勢いよく脳天を突き刺した事だった。
「 天秤が 待ち構えていますよ と 注意しようと 思ったんですが ねえ 」
「……っ」
「 遅かった ようです 」
「……」
絶句する花売りと心底楽しそうな薬売り。
二人の間に長く奇妙な沈黙が流れ、やがて頭頂部から流れ出た赤い液体が花売りの首筋まで伸びてきたところで、やっと被害者が次の行動に移した。
「そ。れでは。クスリウリ様。御機嫌よう……っ」
「 足元には くれぐれもお気をつけて 」
若干の涙声で、頭の天秤を抜きながら深く頭を垂れた花売りは、相変らず飄々とした顔をしている薬売りの別れの挨拶を聞いているのかいないのか、街とは反対の方向へと歩き出す。
刺されたのが衝撃だったのか未だ頭が痛いのか、花売りの足取りは定まっておらず、一歩踏み出しては籠の中の茗荷が転げ落ち、また一歩踏み出してはコロコロと粒が地面に転がっていった。
「 ああ だから 」
その花売りの前方に、躓くのにおあつらえの丸い石。
「 足元に気をつけろと 言ったのに 」
薬売りが呟くと、彼の目の前で例の男が盛大にすっ転んで、藪の中に突っ込んだ。
道行く人間が何事かと目を丸くする中、薬売りは慌てる様子もなく悠々と立ち上がり、花売りが頭から倒れこんで行った薮の方まで行って声をかける。
「 全く困った 木偶の坊だ 」
砂利の上に散乱する茗荷に、転がる高下駄。
引っくり返った籠の傍で風もないのに緩く動いている打掛を拾い、何時までも藪の中で微動だにしない花売りに対し、柔らかい表情で溜息を吐いた。
「 茗荷が半分ほど 打掛に喰われましたが 」
「……」
薬売りの言葉通り、確かに籠の中の茗荷が全部散らばったにしては数が少なく、また打掛の紋も変わっていて、丸の中には茗荷紋が二つ仲良く並んで丸の中に納まっている。
最早井桁の「い」の字も見当たらないその打掛から視線を外し、薬売りはここに来て初めて、花売りの名前を呼ぶ。
「 傷薬くらいなら 出しますよ 」
その声が聞こえたのか、程なくして藪の中から現れた花売りは、額に大きな切り傷を作って道端に座り込んだ。見れば、目元に微かに涙が滲んでいる。
「 ほら 顔を上げて 」
「いや。額よりも。天秤に刺された方が……」
「 ああ そちらはいいんです よ 」
「え?」
「 寧ろ 痛みがしばらく消えないくらいが 丁度良い 」
花売りの額に薬を塗りながら僅かに口端を吊り上げて意味深な表情をする薬売りは、久しく見なかった男の素顔を見つめて他に傷がないか確認をした。
「 けれど それ以外の傷は 直に治して差し上げますよ 」
塗り薬を抽斗の中にしまい、呆けた顔をする褐色の美丈夫に手を差し出すと、首を傾げながらも男はその手を取って立ち上がる。
空いていた方の手にはいつの間にか拾い集め終わっている茗荷の籠を持たされ、下駄を履いているのを確認されると、そのまま手を引かれた。
「……え?」
「 薬代くらいは きっちり働いて 払って頂きませんと ねえ 」
「働く?」
「 金銭でも構いはしませんが こちらの方が面白そうですので 」
「面白そうって。あっしは『ハナ』を『摘む』には何の役にも立ちませんよ!?」
「 まあ いいじゃ ありませんか 」
慌てて腕を解こうとした花売りの手を強く握り逃げられないようにすると、すぐに観念したのか、褐色の手は抵抗するのを止める。
「本当に。金銭じゃなくていいんですね?」
「 ええ 」
「……承知致しました。どうなっても知りませんが。どうぞご自由に為さいませ」
これでも一応付き合いは長い。彼は彼なりに、薬売りの性格を把握しているつもりだった。
しかし、もう逃げないと宣言しているにも関わらず、薬売りは花売りの手を離そうとせず、歩は緩めたものの、重なった手をもっと強く握って振り返る。
「 そう そう 髪はちゃんと 下ろしてください 」
「しかし。髪に薬が……」
「 の素顔を知るのは おれだけでいいんです 」
大人びた声で子供みたいな事を言った薬売りに、花売は何か考えるような顔つきをして、しかしそれもすぐに諦めた様子で、前髪を下ろしながら言葉を吐き出した。
「阿呆のあっしにはシロウサギが何を考えているのか。さっぱり判りません」
「 木偶の坊は それくらいが 丁度いいんです よ 」
誰にもその表情を見せずに返された言葉に対して「左様ですか」とだけ短く応え、派手な打掛を着た男は蝉の鳴き声と共に青すぎる空を眩しそうに仰ぐ。
まあ。そう言うならそれでいいか。と吐息と共に吐き出した声は果たして伝わったのか、それは今も涼しげな表情をしている薬売りだけが知り得たことだった。