曖昧トルマリン

graytourmaline

片栗小径

 陽光に照らされて橙色になった杉玉が吊るされた軒下で徳利を一提受け取る際、裏の山へ行ってみてはどうかと世間話の一環のような形で話しかけられた。何でも、今の時期は山道を少し行ったところに群生している片栗の花が咲いているのだという。
 にとっては片栗の群生地など然程珍しいものではなかったが、今日はもう宿に行くだけだろうし、短命な春の花を見逃すのは惜しいと思い、素直に礼を言うと猩々袴の咲く道を登り始める。
 黒く塗られた瓦葺の蔵の裏手にある小高い山に足を踏み入れると、冬の間に枯れた蕨が生えていたり、秋に落ちたであろう団栗が茶色の殻を割って、強い紅色を含んだ渋皮が殻よりも大きくなり中から僅かに緑を溶かしたような黄色の実がひょこりと覗かせている。
 水の流れる音がした。朝に降った雨が小川にでもなっているのだろうか、もう少ししたら食べ頃になりそうなタラの芽を横目に耳を澄ますとサワサワと木が喋る。遠くでチ、チ、かぁかぁかぁかぁと忙しく声を上げる中に混じり、鶯ののんびりとした囀りが聞こえた。風は微風で僅かに冷たい。
 すぐ近くでジ、ジ、なんていう音がするもので、一体何の虫が鳴いているのやらと思えば、近くの葉に雨水が落ちている音だった。そんな景色を眺めながらぼんやりと山道を登ろうとした所、薔薇色の打掛に一滴の水が落ち、危うく斜面を転げ落ちそうになる。
 慌てて膝を付いた際に触れた倒木からは瑞々しい新芽が伸び始めており、何処も春の到来を喜んでいるように見えた。太い羽音で虻が横切り、白くて小さな、ふわふわした虫が水面のように宙を泳いでいる。
 ほんの少し山に分け入っただけでも随分違うものだと改めて実感しながら、は再び山道を歩き出した。一本歯の下駄が転がる石を踏む度にコンコンと鳴って、五合徳利の中の液体が美味そうな音を奏でる。
 そんな演奏を暫し無言で続けていると、やがて少し道の開けた場所に出た。左手には群れから逸れた片栗が二輪、顔を斜面の方に向けて咲いている。正面には水の堪った窪地があって、その斜面を覆うように片栗の花が群れを成して咲いている。近寄ってみると皆一様に斜面の下の窪地に向かって咲いていて、足元の大きな羊歯の隙間からは、白くてほんのりと紫がかった紅色の、柔らかそうな蕾が肩を持ち上げ頭を垂らし、まるで釣鐘のようにひっそりと佇んでいた。
 広がった二枚の葉は明るい緑で、赤みを帯びた茶色の模様が入っている。気温が低くなってきた所為なのか、細長い蕾も多く目に留まった。
 はそんな彼らを見て小さな子供のように芽を輝かせ、水が流れるほうに顔を向けている花の中を覗きこむ。六枚に裂け、反り返った花の中には濃い紫の雄しべが少しだけ顔を出して、中で蟻が蠢いていた。元の姿に戻ればもっと容易に覗き込めるのだが、山中で商売道具やら酒やらを残したまま全裸になるわけにも行かず、忙しそうに花の中を動き回る蟻を黙って観察する。
 咲き切ろうとする片栗の花は蕾の頃からは到底考えられないような美しい形を取っていて、その姿は、蕾ならば淑やか、僅かに花弁が反って来た咲き初めであれば艶やかと言っていいだろう。
 そういえば、片栗の後姿は何処となく薬売りに似ている。の恋人はこの花ほど儚くも、控え目でもないが、それでもそう思ってしまうと口元が綻んでしまった。
 さて、そろそろ帰ろうかと顔を上げると、空は燃えるように赤くなっていて、森の緑は黒く沈み始めている。思っていたよりもずっと長く此処にいたようだと灰色の髪を掻くと、籐の花篭を持って花弁を閉じ始めた花をもう一度だけ見上げる。
 すると、その紫色の中から一羽の小さな蝶がすうっと現れ、の肩に留まり羽を休め始めた。そう思ったのも束の間のことで、打掛がばさりと翻ったかと思うとその蝶は金と銀の刺繍になってしまう。相変わらず紋になってしまう物ならば見境なく喰らう悪食だと自分の打掛を評しながら両脚に力を込めると、は鳥のように宙を翔けて灯のともり始めた街へ向かった。
 ばたばたと騒がしく喚き立てる打掛に容赦なく風を送りながら、ふと気になって背後を見下ろしてみると、幾つもの薄紫の点が眼下にある。
「……融けて消えてしまう前に。もう一度。今度は一緒に来たいものですね」
 夏には茎も葉も姿を消してしまう花を見下ろしながら、は薔薇色の打掛に薄紫の蝶を纏ったまま夕暮れの空をもう一度跳ねた。