桜蔭蝶蛾
珍しくよりも先に商いを終えてしまった薬売りは、ふと目に留まった光景に足を止めた。咲き誇る桜の花弁が緋色の毛氈や筝の上を音もなく静かに落ち重なり、何人かの袴姿の女性がその下で絹糸の絃を弾いている。十を僅かに超える程度の見物客の中で奏でられるその筝の音は通り行く人々の雑踏で濁ってしまい聞き取り辛くも感じた。
暇もある事だしもう少し近くで冷やかそうか、そう考え及んで桜の木に近付くと、丁度女性達の演奏が終わり露草色の着物を着た青年が一人、前へ出た。
常に人が行き交い、決して静まらないその中で青年は視線を筝に落として手を動かし、紙の上に書かれていた文字を頼りに音を作り始める。
幾人かの年老いた男性がその場を去り、代わりに薬売りはその場に立って題名も知らない音楽に耳を澄ます。先程まで騒がしかった空は風を吹かせるのを止め、静かだった桜の木からはチイチイと小鳥が囀り始めた。
奏でられるものとは関係なく、一枚、二枚、とゆっくり落ちては積もっていく白い花弁が、一際強く吹きつけた風の所為で牡丹雪のように降り注ぐ。壮年の男性が乱れた襟を正し、歳を重ね可愛らしくなった小さな女性が肩に付いた桜の花を皺だらけの指先で払った。
誰もが一瞬、視線を桜の木から外した時だった。薬売りはその木に降ってきた薔薇色の影に目を細めた。
筝の音の邪魔をせず、音も気配も消して宙を渡った男の姿に視線をやって笑って見せると、白い花々の間から褐色の腕が少しだけ伸び、大きな掌がひらりひらりと二度振られる。
後から来たというのにとんだ特等席を取られたものだと、そんな呟きは背後の雑踏がかき消し、演奏は曲調が変化し、いよいよ終盤にかかった。桜の木に薔薇色の打掛を羽織った男が留まった所為なのか小鳥の鳴き声もいつの間にか止んでいて、筝の音は一層強くなる。
弱い風が吹き始め、綴じられていた譜が捲れ始めた。小鳥の黒い影が青空へ飛び立ち、揺れた枝からはまた花弁が振ってくる。それに紛れて薄青紫の蝶がふわりと浮いたかと思えばすぐさま薬売りの肩に留まり、重さを感じさせない羽をゆっくりと開いたり閉じたりして動かしていた。花の陰からは人の形をした天狗がくすりと笑っている。
白い花の隙間からは筝の音に合わせて金や銀の刺繍が踊り、しかし道行く人間は誰も気付かない。筝が演奏されている事すら気に留めないのだから、当然なのかもしれないけれど。
「ありがとう御座いました」
やがて筝の音も止み、男の口から零れた挨拶に、薬売りはぼんやりとした思考の世界から現実へと引き戻される。ぱらぱらと心の篭らない拍手が叩かれ、見物客は何も言わず日常的な雑踏の中に溶けていった。薬売りはそんな彼らとは反対の、桜の木の裏側へ足を運ぶと、案の定機嫌の良さそうなが今聞いたばかりの曲を鼻歌でうたっている。
「 空から降ってくるなんて 非常識だな 」
「嗚呼。いえ。本当は……最初は歩いてくるつもりだったのですが。シロウサギのいらっしゃる方に『ソウ』の音が聞こえまして」
「 こういった物が好きなのか 」
「咲き散る『ハナ』ほどでは御座いませんが」
宙を舞う桜の白をゆるりとした仕種で掴んでみせながら、子供のように笑うに薬売りは意味もなく溜息を吐いた。途端に何か言ってはいけない事を発言してしまったのだろうかと笑顔を曇らせる男に何でもない事を伝え、まだ日は高いけれども宿を探そうかと歩き出す。それを送り出すかのように桜の木が枝を揺らし、散るという選択しか残されていない花を美しく宙に舞い躍らせ、自らの根元を白で埋めていった。
しかし空に居た鳥が羽を休める為にその枝に止まれば、桜の雨はぴたりと止んで薬売りの頭巾を撫でていく。その感触に振り向くと、後ろから一羽の蝶が重力に逆らうようにつっと横切り、そのまま花弁に紛れてどこかへ消えてしまった。
薄い青紫色をしたその蝶の行方を案ずる事無く、不安そうな顔で声を掛けるに返事をする。琥珀の瞳は蝶を追わず、ただ一点をじっと見つめていた。何も言わずに歩き出せば付いて来て、大きな図体に見合わない臆病な表情で色々と話しかけてくる。
それでいい、桜の花が降るその陰で、薬売りは笑った。