曖昧トルマリン

graytourmaline

はにかむ

 帯の結び方教えてくれ、急ぎで
 14文字に纏められたメッセージが恋人である獅子神からメッセージアプリ経由で送られてきたのは、山の木々を打つ豪雨と一面に広がる暗雲の向こうで輝いているはずの太陽が空の頂点に登り切る前の時間帯のことだった。
 普段この時間のは鹿の解体に精を出しているので確実に連絡を取るのなら電話が最善手である。しかし荒天の日には山へ入らない事を知っている獅子神はすぐに返信が来る方へベットしていたのか、リモートで説明する旨の文字列には即座に既読が付いた。獅子神自身はスケジュールを組み段取りを怠らないタイプなので、急を要するのならば最年少の友人の突発的な思い付きかストリーマーの友人のサプライズで和装へ着替える事態となったに違いないとは当たりを付け、更に、後者の友人が本日の配信を予定していない事から獅子神の家には間違いなく2人が訪問中であると想定する。
 友人達は皆、獅子神が着付けに関して一通りの技術をから仕込まれている事を知っているか、勘付いているのだろう。今頃言うことを聞かない大きな子供の服装を案じる怒号が飛び交っているに違いないと静かに微笑みながら腰差しにスマートフォンをしまい、説明に適した色合いの浴衣と帯を手に昔ながらの和室に鎮座する黒い箱の電源に手を伸ばした。
「東京はイベントが多いからなあ」
 パソコンが立ち上がるまでの間にしまったばかりのスマートフォンを再度手に取って本日開催されているイベントと東京の天気を検索し、web会議用のツールを立ち上げる段階になってから送られて来た「まってる」の4文字に彼は頬を緩める。
 了解と打ち込んでから一度消し、暫し悩んで選び抜いた末の、この4文字なのだろう。小さな画面を睨むようにしてああでもないこうでもないと百面相する年若く可愛らしい恋人の様子を想像していると、果たしてモニターの向こうには恥じらいを打ち消すために浮かべた仏頂面の所為で中々面白い事になっている獅子神が浴衣姿で座っていた。真新しい書斎に差し込む光を見ると、どうやら天気予報通り東京は祭日和のお手本のような夏の好天に恵まれているらしい。
 ブロンドに輝く獅子神の髪に合わせた淡い色の浴衣、それを押し上げる逞しい筋肉と厳つさを打ち消す華々しい容姿。普段の衣服では隠れがちになる骨格がはっきりと浮き出ていて男らしさに磨きがかかり、少し窮屈そうにも見える着慣れていない雰囲気がともすれば敬遠されがちな迫力を和らげていた。
『何だよ』
「似合っていて可愛いと思っただけさ」
『この図体でカワイイはねえだろ、イケてるって訂正しろ』
「……ふふっ、ごめんね?」
『何に対しての笑いと謝罪だよ!? 場合によっちゃぶん殴るからな!』
 触れる事さえ敵わないのに照れ隠しに拳を振り上げた獅子神の姿に思わず吹き出しただったが、手元は作業をそつなく進めており複数開かれたウィンドウの1つが送信完了の合図を示した。
「殴られたくらいで意見を変えられるような往生際の良いジジイじゃないよ。それより、帯の画像を幾つか送ったからどの結び方を知りたいのか教えてくれ」
『クソ、今度問い詰めてやる』
 急ぎで、と自分から伝えていた事を忘れていた訳ではないようで、獅子神は潔く引き下がると手元に置いてあるだろうタブレットに視線を走らせて画像を拡大する仕草を見せた。女性と比較すると男性の帯結びはアレンジの幅が狭いので過去にが装った帯の中から目的の物をすぐに見つけられたのか、拾えない音量でああこれだと口元が動く。
『2枚目のカルタ結びを派手にしたヤツ。これ、確かさんの創作結びなんだろ?』
「うん。難しいものじゃないから、何処かで誰かと被っているかもしれないけれどね」
『被るかよ。なんなら賭けてもいいぜ? これから真経津達と祭りに行くから今日中にカルタ結びの人間に遭遇したらオレの負け、なんでも一つ言う事聞いてやるよ』
「……ボクがアレンジした結びじゃなくて、誰の、どんなカルタ結びでもいいの?」
『あ、そうかこれ男女兼用の結び……いや、まだルールは決まってねえよな!?』
「そうだね」
『じゃあカルタ結びなら何でも。でも女は対象外で、男限定だ』
 夏祭りだからとはいえ浴衣を着る男性も珍しくなってきた昨今の事情から、これなら負けないだろうと子供のような表情でモニター越しに指をさす獅子神を正面から見つつ、は死角で操作していたスマートフォンに視線を一切向けないままギャンブラーと恋人とを織り交ぜた男の顔で笑った。
「いいよ、乗ろう。タイムリミットは今日の24時まで、報告は獅子神君の自己申請で。ボクが負けたら獅子神君の言う事をなんでも聞いてあげる、一つと言わず幾つでもね」
『嘘吐くかもしれねえのにオレに任せんのか、それでもギャンブラーかよ』
「勝算はある」
『言ったな?』
「二言はない」
 言うなりは手早く帯と腰紐を解いて立ち上がると浴衣を羽織り、獅子神も慣れた様子で同じように六角形の幾何学模様柄に織られた帯を解いた。
 さほど珍しい柄ではない、何処にでも売っていそうなその帯に気付いたは虚を突かれたように一瞬だけ手を止めて、帯とから視線を逸して素っ気ない演技で感情を隠そうとする獅子神の表情を見る間もなく随分可愛らしい事をしてくれる子だと手に取っていた浴衣を離す。
「……少しだけ待ってくれ。別のものを持って来るから」
『おう』
 一見すると全く動揺した様子もないまま、その実、下着一枚に薄地の浴衣を羽織っただけのはしたない格好で衣装部屋までの距離を早足で往復したは、箪笥から引っ張り出した派手な模様と色合いの博多織の帯を手に締め方の説明に入る。そんな恋人の変化を観察していた獅子神はというと、モニター越しで真剣に聞こうとする姿勢を見せながらも明らかに浮かれていた。
 が手にした帯は、いつか共に入った店で獅子神が選んで贈ってくれたものだ。そして、獅子神が手にしている帯は、同じ経緯でが贈ったものだった。
 互いに贈った物を身に付けて、互いの為に時間を費やし、互いに同じ形を纏いながら、互いの為には装わない。
 それでいい、と愛おしさを飲み込みながらは思った。彼は、獅子神という恋人は、対価など考えずもっと自己満足の為に振る舞えばいいのだと。常に一緒にいて、何もかもを共有しなければならないような恋など、は望んでなどいなかった。
『オレと一緒に遊びに行けなくて寂しいって顔に出てるぜ、おじーちゃん』
「……そうか」
『そうかそうか! 敬一君には君がそう見えるのか!』
『げっ、叶。オメーどうやって』
『小細工なしの正面突破だ。ピッキングはハーフライフ以上の嗜みだからな』
『そんな嗜み聞いたこと』
『獅子神さーん、浴衣動きづらいからやっぱり甚兵衛にしたい』
『真経津テメー病院着みてえだから嫌って言ったばっかじゃねえか!』
『だってこんなに苦しいって思わなかったんだもん』
 明らかにタイミングを見計らいながらカメラに映るよう突入してきた叶と真経津は場の空気を敢えて読まず獅子神を誂い、一瞬にして全てを引っ掻き回す。
 真経津は肌襦袢代わりのシャツに浴衣を羽織ったまま獅子神に文句を垂れ、叶はシンボルカラーで染められた夏用の着物を小粋に着こなし未だ繋がるモニターに映るに向かって手を振った。反物から注文したようで、よく見なくとも叶のシンボルマークがはっきりと染め上げられている。
『いえーい君見てるー? 今から君の大事な敬一君と祭りに行っちゃいまーす……ほら、晨君続き!』
『もういっそ皆でアロハシャツに着替えない? その方が楽だし面白いと思うよ、村雨さんと天堂さんが』
『はあ!? 晨君最高じゃん! くっそダサくてバカがデザインした最悪なアロハ今から探しに行こう、敬一君車出してくれ!』
『アホか現地集合する連中もいるのに無茶な要求出すんじゃねえ! 第一祭りの前に鰻食べに行いたいって駄々こねたの真経津だろ! アロハで入店は流石に断られるわ!』
「みんな若いねえ」
 突如として始まり混沌としか表現出来ない20代青年達の会話を眺めていたは年寄りじみた台詞を口にして、ふと今気付いたかのような表情を浮かべて手招きをしながら獅子神を呼ぶ。
『あ、なんだよ? 今忙しい』
「賭けはボクの勝ちでいいよね」
『はあ?』
 何を言っているのだと眉を顰めた獅子神はモニターに映るの指先に従い叶の背中に顔を向け、絶句した。
『お、まっ。叶テメェなんで帯結び変えてやがんだよ!? うち来た時は貝の口だったじゃねえか!』
『ギャンブラーならカルタ結び一択だろ。敬一君は何言ってんだ?』
 意地の悪い笑みを浮かべながら叶はしらばっくれる様子もなくスマートフォンの着信履歴を獅子神に見せ、一番上に表示された名前と時刻を脳が認識した瞬間が微笑むモニターに勢い良く振り返った。
 獅子神との賭けをリアルタイムで叶に流していたはというと、青い目に睨まれながらも悪怯れなく椅子に座ると融けるような声でマイクに話しかける。
「敬一君、ボクはね、負けない確信が持てるギャンブルにしか手を出さないんだ」
『しっ……知ってる! ああ、知ってたよ! クソ……っ、男に! 二言はねえ!』
 好きにしろと叫ぶように負けを認めた獅子神の背後で、真経津は据わった目をしてだからさんと一緒に遊んでもつまんないとほぼ衣服として成り立っていない状態にまで脱いだ浴衣を煩わしそうにバタつかせ、対して叶は生き残る為に全力でオレを見てくれるから中々悪くないと評した。
 勝手な事ばかり言う友人に挟まれた獅子神は一人尋常じゃない覚悟を背負ったまま黙り、一体何を言われるつもりなのだろうとは苦笑する。いやむしろ、彼は一体どのような命令を恋人に下すつもりだったのか、とも言い換えられるのだが。
「それじゃあ、今日一日、お祭りを楽しんできなさい。ああ、その前の食事もね」
『は?』
「それが敬一君に聞いて欲しい事かな」
『いや、そんなんでいいのかよ。つーか、言われなくても楽しむつもりだったし』
「そう? お面が気になるけど買ったらダサく見えるかもしれないから買わないでおこうとか、ゴミ捨て場がいっぱいだから屋台で買うのを止めようとか、ないかな?」
『ねえよ』
『ええ、獅子神さんてそういうのすっごくありそう』
『あとオレらの興味にメチャクチャ気遣って自分の好奇心疎かにするよな』
『うるせえ!』
『しないって返さないからなあ、敬一君』
 余裕を持ちつつも呆れがちな叶の長い腕が鍛え上げられた肩に回り、最早布を引っ掛けるだけとなった真経津の腕が広い背中に触れる。そんな友人達に挟まれた獅子神は動けないと文句を言いつつも力に任せて振り解こうとはせず、変な命令されるより何倍もマシだとこれ見よがしに大きな溜息を吐いた。
「真経津君の着替えもあるだろうから、ボクはそろそろお暇するよ。気を付けて行ってらっしゃい」
『おお、じゃあな。急に連絡して悪かった』
 モニターの向こうで手を振る獅子神の返事を耳にしたは困惑の感情を隠さないまま笑みを浮かべ、獅子神はその様子に怪訝な表情を返す。その理由を説明する前に、瞳の中にスマイルマークを飼っている方の友人が長い指で金色の髪を掻き乱しながら大袈裟に笑った。
『敬一君やり直し。じゃあな、じゃなくて、行ってきます。悪かった、じゃなくて、ありがとう、な?』
『……あー、うん。叶も、そういうトコに気付いてオレに言ってくれるの、案外ちゃんとしてるよな。ありがと』
『ええ、ボクも言えるよ。獅子神さん、帯結んでくれてありがとー!』
『折角着せてやった浴衣の形跡ほぼねえけどな。っと、さん、相談乗ってくれてありがとう、で、今からこいつらと行ってくるわ』
「はい。いってらっしゃい」
 少しだけ目を伏せるようにして含羞み、手の甲まで広がった傷の付いた右手でパソコンを操作する獅子神の姿を最後に通信は切断される。
 後に残ったのは夏の終わりに現れる蝉の鳴き声と濡れた木々の葉から雫を取り払う風の音で、この短い時間に雨雲は山の向こうへと移動してしまったようだった。
 激しく打ち付ける雨の音より騒がしいのは若者の特権であるとしみじみと感じながら思わず漏れてしまった笑みをそのままに、は美しい帯を指先で撫で雨戸の隙間から見えた2つに連なる7つの色を見上げながら目を細めた。