It's A Man's Man's Man's World
ティーバックが入ったままのマグカップを差し出され、新聞から手を離し反射的に受け取る。淹れたばかりだからまだ飲めないと言われカップを覗き込むと、底には抽出されたばかりの茶色い靄が漂い、水面には陰気臭い中年男の顔が浮かんでいた。
同じマグを手に正面に座ったリーマスが心配そうな表情で私を見ているので、皮肉げな笑みを浮かべ何でもないと返すが十年来の親友は私の嘘を簡単に見抜く。別に声に出して指摘される事はない、それどころか表情一つ変わらないのだが、普段は心配になる程穏やかな雰囲気が変化し、それは嘘だと空気が語っていた。
私はどうにも、学生時代から彼の作り出す、この空気に弱い。例えは悪いが、寒空の下で捨て犬を見付けた時のような後ろめたい気分にさせられる。
「気分が悪くなる話だぞ」
「君が口にする話は、昔から誰かの気分を害する方が多いような気がするな」
「そこまで言ってくれるなら、付き合って貰うか。なあ、リーマス。計り知れぬ英知こそ、我らが最大の宝なりという言葉を何処かで聞いた事はないか?」
「それが悩みの種だったのか。でも生憎……いや、何処かで耳にしたな」
膨らみ始めたばかりのティーバックをスプーンの背で潰しながら記憶を探るリーマスに、そんな事をしたら味と一緒に渋みまで出ると忠告するがミルクを入れるから問題ないと返答された。そういう問題ではないのだが。
しばらくしてから思い当たったのか、少し掠れた声でレイブンクローだと告げられた。
「計り知れぬ英知こそ、人類が最大の宝なり。2年前にホグワーツで教えていた時、レイブンクローの生徒が口にしていたような気がする」
「矢っ張りそうか」
紅茶らしい色になった私のマグとは違い、真っ黒になった湯からティーバックを引き上げ角砂糖とミルクを注ぐリーマスに、一体何があったのかと訊かれた。別に何でもない事で、仕事の息抜きとして話題にしていいような内容でもないのだが、求められたのだから話してしまおう。
「今までその手の言葉を耳にした場所は3箇所ある。1つは、学生時代のホグワーツ」
「それは、うん、そうだろうね」
「1つはこの家で。とは言っても血が繋がっているだけの連中からじゃない、ジニーが何気なく口ずさんでいたんだ。レイブンクローの友人の口癖が移ったらしい」
「最後の場所は?」
「アズカバンの独居房だ」
意外だろうと尋ねる必要もない。目の前の表情は、お手本になる位に見事な驚きましたという形に変化していた。その手のコンテストに応募すれば、佳作は穫れるだろう。
「それは、私が聞いてもいい話題なんだろうか」
「気分を害する話だって言っただろう。それに、お前に話せないのなら誰にも話せない」
獄中生活の話をハリーやあの子の友人達に聞かせる訳にはいかない、かと言って大人に対して振るような話題でもない。万が一にでも子供達の耳に入ったとなれば、モリーが良い顔をしないだろう。
彼女に怒られたくはない。怖いからじゃない、その後の対応が面倒だ。
「何も知らないままで居るのも問題だとは思うがな。アズカバンがどのような場所なのか位は、知識として覚えておいた方がいいと思うんだが」
「説明すればモリーも判ってくれるんじゃないか?」
「そうだな。お互いに腰を据えてじっくり話し合えば、自然死についての形而上ならびに形而下の影響を覆す可能性の研究の序論だって理解出来るさ」
「そういう言い方をするから喧嘩になるんだよ」
「こういう言い方をしなくても喧嘩になるんだよ。だから説明しないんだ」
彼女は元々感情的な女性だ、こと身内に話題が及ぶと自分は母親だからという理由で論理を飛躍させる。
この屋敷に閉じ込められているだけでストレスを感じている私が、そんな彼女と意見を交わしたらどうなるか想像出来るだろう。それでなくても、私達は四六時中口論をしているのだから、想像の必要すらない。
ミルクティーを飲みながら私の最適解を理解したリーマスは、結局モリーについてこれ以上何か言う事を諦めたようで、素直にアズカバンで何があったのかと尋ねて来た。私の中で繋がった、胸糞悪くなる話に付き合ってくれるらしい。
「隣人になった、ある男の話さ」
……両隣の独居房に来た新人へ話し掛けるのは、狂死しそうになるアズカバンで正気を保つ手段の1つだったよ。
自分が無実だって妄執が、勿論支えだったさ。けれど手段は多い方がいい。他愛ない他人の言葉が、私にとって貴重な外の情報だった事もあるが。
ディメンター達は人間の感情、特に幸福と絶望に反応するが、その他の感覚は視力と同様で鈍い。アズカバン勤めの魔法使いは日に数度の巡回しか行わないから、それさえ気を付ければ雑居房よりも自由に会話する事が出来る。
勿論、防音魔法はかかっていたさ。しかし強力なものではない。囚人に直接関わる業務はどれもディメンターが請け負っていたからな、魔法使いが施設を点検をするのは月に1度か2度、しかも横目でちらっと確認するだけだ。念の為の重ねがけすらしない。
そういう事だから、その日、私はいつもの調子で右隣の牢獄に入れられた男へ気さくに話し掛けたんだ。勿論、名前を伏せたが。
「模範囚で仮出所間近の移動か、おめでたいね」
「驚いたな、判るものなのか」
正直、こっちも驚いた。返って来た声が想像以上に穏やかだったからな。
「消去法だよ、新入り。雑居房で問題を起こすような隔離タイプの野郎は何度も見た。判決から一直線で独居房に連れて来られるような奴も、沢山見て来た」
「……貴方は、直接独居房に?」
「詮索は止めろ、呼び方もな。ᛈᛉ390と呼んでくれ」
「そっちの方が長いじゃないか。ミスター・ᛈᛉ390」
「だったらジェフリーでもアルバートでも、好きに呼べばいいさ。お前の名前は?」
「」
「それ本名か?」
「いや、ニックネームだ。雑居房の仲間にそう呼ばれていた」
「そいつらはいいセンスをしてる、確かにお前はって印象の男だよ」
は模範囚だけあって物静かな男だった。
私が何か尋ねれば必ず返答して喋り続けるが、自分から話し掛ける事はなかった。独居房はディメンターが四六時中監視していたから、無駄に口を開いて気分を高揚させたくなかっただけかもしれないが。
ただ、日に数回、必ず口にする台詞があった。
「計り知れぬ英知こそ、我らが最大の宝なり」
「聞き覚えのある言葉だ」
「モットーなんだ。この言葉と共に、俺は生きて来た」
あいつにしては珍しく熱の篭った言葉だったよ、だがすぐにディメンターが餌を求めて近付いてきた所為で詳しくは聞けなかった。ただ、私が無実を心の糧に正気を保って来たように、はそのモットーを支えにアズカバンで生きて来たって事だけは判った。
釈放までの短い期間、途切れ途切れだが私は彼の人生を聞き出した。若い頃にやらかした事を随分悔いているようだったが、知っての通り北海の孤島には神父も弁護士も来ない。私はマグルの聖書など読んだ事はないし、アズカバンは懺悔室と呼ぶには物騒で陰鬱で薄汚い場所だったが、それでも真似事は得意だったからな。
聞けば、は魔法生物の剥製技師だったらしい。
金持ち共の狩猟成果を保存する仕事から、歴史に名を残すような偉業を遂げた魔法生物の保存まで手広くやっていたが、手広くやり過ぎたのだと壁越しに悔いていたよ。
「ある生き物に手を出したのがいけなかったんだ」
「何だ。まさか人間か? そういえば、昔そんな事件があったな」
「まさか、人間の剥製なんて考えただけで恐ろしい。モットーの言葉通り、俺達は計り知れない英知の源なのに」
「なら、貴重な魔法生物か?」
「それも違う。あれはこの地球上の、何処にでもいる生き物だ。ただ、路地裏で凍死してた死骸を拾った事がいけなかったんだ。俺にとっては剥製の材料だったけど、一緒に暮らしていた存在にとっては大切な家族だったんだ」
「ペットか」
「……謝罪と一緒にそう言ったら、鼻やアバラを折られた。あの子は家族なんだって」
「が殺した訳じゃないのに、酷い話だな」
不運な男だ、そう思っていた。
猫か、梟か、偶然見付けた死骸を剥製にした結果が、暴行を受けてアズカバンに放り込まれるなんて、とはな。相手を恨んではいないという言葉を聞いた時は、聖人になれるんじゃないかと冗談ではなく言ってやったよ。
そう言えば、その後は如何に人命が尊く、死刑が人道に反する行為なのかも十分に語られたな。根っからの人権派なんだろう、ディメンターのキスは死刑じゃないと言っている連中の気が知れない、あれは実質的な死刑だと吐き捨てていたからな。
それから半月が経って、いよいよ仮出所の日、はいつもと変わらない調子で私に話し掛けて来た。流石に少し気分が浮ついていたみたいだが、ディメンターが近くを巡回して鬱々とした声に変わったのを、その時は哀れんだよ。
「アズカバンを出たら名前を変えて、を本名にするよ。それに、転職する」
「いい腕なんだろ? 勿体ないな」
「狭い業界なんだ、きっともう戻る場所もない。剥製は趣味で続けるよ。今度は間違えないように、ちゃんと俺自身が獲得した動物で」
監獄生活が長かったから腕が落ちているかもしれない。沈んだ声で苦笑したの表情は見えなかったが、無理に笑ったんだろうなという声だった。
「詮索嫌いな隣人、ミスター・ᛈᛉ390。餞別に1つだけ、教えて貰ってもいいか」
「内容によるな」
「ホグワーツでの出身寮を訊きたいだけだ」
「……グリフィンドールだ」
「ありがとう。少し残念だよ」
……それが、と交わした最後の会話だった。
特別、印象に残るような男じゃなかったからか、今まで忘れていた。しかし、思い出した所で、何かが変わっていただろうか。
全てはの出所後、私が脱獄する前に終わっていた事だ。
「悪いけれどシリウス、急に話が見えなくなった」
「私が尋ねたのは、計り知れぬ英知こそ、我らが最大の宝なり。リーマスが言ったのは、計り知れぬ英知こそ、人類が最大の宝なり」
温くなった紅茶に口を付けて、さっきまで目を通していた新聞を正面に投げてやる。
魔法省はヴォルデモートの復活を信じないが、全ての犯罪者がこの世から消えたと宣言した訳じゃない。闇の陣営と関わっていない犯罪が起これば、それは普通に記事になる。
「行方不明の魔女、遺体で発見……遺体は自宅の倉庫で剥製にされいた。元剥製技師で夫の・は容疑を認め、殺害についても供述……容疑者は14年前にも死亡した人間を剥製にするなど死体損壊の罪で有罪判決を受けており……また魔法法執行部隊によると容疑者はレイブンクロー生以外は人間ではないなどと意味不明な供述し解明には時間がかかる模様。シリウス、これって」
「読んでの通りだ」
必要な部分だけを拾い上げたリーマスの顔色が悪くなる。忠告した通りの胸糞悪い話で、子供に聞かせる訳にはいかない内容だ。
溜息を隠す為に口を付けた紅茶は熱を失い始めていて、だからなのか、少し苦かった。