第二日目にエリッサが物語るには、
フクロウのように手紙や荷物を運んでくれなくても、ヒキガエルのように体液が魔法薬に使えなくても、彼にとっては猫が一番便利な動物だった。
「今日は此処か」
ホグワーツの敷地は広大ではないが、授業に使われたり人目に付く場所は限られている。日当たりが良好という利点を除けば、城の正門からは遠く、蔦に覆われた城壁と、伸び放題の芝生と、名前も定かではない広葉樹しかない場所に態々来るような生徒はいない。
そう、生徒はいない。けれど、猫はいる。しかも、割りと頻繁に。
ディメンターの所為で例年よりも陰鬱な雰囲気だった冬が終わり、冷たい風が吹き付ける春も過ぎようとした本日の昼寝スポットの案内に、猫ほど便利な案内者はいない。少なくとも、はそう考えている。
夏の暑い日には涼しい場所へ、冬の寒い日は暖かい場所へ。肥満気味だがダイエットフードの味を気に入ってくれない相棒こと、ジンジャーキャットのかぎしっぽを目印に、今日導かれたのはこの場所だった。
夏が始まる目前は毎年大抵この場所に案内されるので意外性はないが、人の気配が少なく雰囲気も悪くない為、時折見知らぬ男女がアレコレしていたりするのだ。彼の愛猫は何処かにニーズルの血でも入っていてそれを事前に察知する能力が備わっているのか、先客が居る場合には必ず別の場所にを連れて行く。
去年、ちょっとした病気に罹ったので薬を無理矢理飲ませたのだが、それを根に持ったのか、快復後に復讐として上級生達がイタしている最中の現場に連れて来られた時は嫌な汗が流れたと回想をしつつも、うん、矢張り便利だと心の中で頷き、普段は怠け者で獲物を探す素振りすらしない甘ったれの世界一可愛い愛猫を抱き締めて木の根元近くに寝転んだ。
柔らかい毛に覆われた太めの猫はに擦り寄って太いダミ声で鳴き、数秒後には夢の世界に旅立つ。こいつは俺の庇護下から離れたら死ぬなと考え、勿論離す気など欠片もないと馬鹿な考えを打ち消しながら、息苦しさの原因になるネクタイをポケットに突っ込み、胸のバッジを外した後に幾つか呪文を唱える。
敷布と枕を出現させ、防音魔法と目覚まし用のタイマー魔法は何処でも必須、屋外なら更に天気の悪化を知らせる魔法も追加し、も愛猫と日差しの暖かさ、土と芝生の匂いを感じながらゆっくりと意識を落とした。
それから、一体どの位の時間が経過したのだろうか。起床のベルではなく人の声が雑音として無防備な脳の中に入り込み、気怠げに長い息を吐いたは眠たげに目を擦り、寝転んだまま腕の時計を確認する。まだ30分しか経っていない。
「あの、離して下さい。そろそろ戻らないと」
「なんで?」
「ロンと、友達と約束してるんだ。一緒に宿題しようって」
「宿題なんて、貴方ならあっという間に片付けられるでしょ? もうちょっと一緒に居ようよ、折角誰も居ないんだから。ほら、いつも友達に囲まれて大変だなって思ってたんだ」
「そんな事ない。僕、1人よりもロンやハーマイオニーと一緒に居たいんだ」
ああ、面倒臭い現場に遭遇した。先客はなのだが、そう思わざるをえない。
木の幹を挟んで背中を向け、更に伸びた芝生に隠された事もあり、女子生徒が誰なのかは判らないが、男子生徒ならば知っている。この学校の生徒ならば、いや、イギリスの魔法使いならば誰だってこの少年を知っているだろう。
ハリー・ポッター、生き残った男の子。
同じ寮の下級生だが、特に接点がないので話した事はない。ただ、同級生であるウィーズリーの双子に構われている姿は、ごく普通の、平凡な少年だなと感想を抱いた。自分から突進するタイプではないが、悪いモノが彼に突撃して来る星の下に生まれたのだろうと、は勝手に結論付けている。
今回もその悪いモノなのだろう、けれど、毎年学期末に起こる騒動に比べれば規模は小さい。放置しても問題ないだろう。
態々此処に聞き耳を立てている男が居ると表明する必要も感じられない、この2人が気付かなければ良いだけの話だと狸寝入りを決め込み、図太く爆睡している愛猫の腹を軽く撫でる。この猫が持っていたであろう野生の本能は、居心地の良さを求める第六感に全振りされているらしい。
次からは人避けの呪文も追加しようか、しかし、下手にピーブズ辺りに勘付かれると隠れているのは誰だと大きな声で喚きながら生ゴミや泥団子を投げ付けられる可能性があるので余りやりたくないと眉間に皺を寄せた。実際、あのポルターガイストに昼寝の邪魔をされたのは一度や二度ではない。
それに、呪文は疲れる。昼寝をしに来ているのに何故睡眠中も魔法を使用して疲れなければならないのか。はまだ取るに足らない学生なのだ。
「お願いだから離してよ、僕はこんな場所に興味ないんだ。貴女の名前だって知らない」
無理矢理拉致されたのか可哀想に、そう思いながらも面倒事は御免だとかぎしっぽを弄っていると判ったと呟くような声の後に突然ヒステリックな音が鼓膜に届き、は思わず両手で耳を塞いだ。
ハリーに拒絶された事実が余程腹に据えかねて逆上したのかと思ったが、指の隙間から聞こえたのは言葉ではなく不愉快な高音の悲鳴。次いで、糸が引き千切られる音と共に目の前に小さな白いボタンが飛んで来た。
「順序が逆だろ」
目の前に転がって来たボタンがシャツのそれである事が判り、芝生の中で特大の溜息を吐く。この状況下でも眠り続ける愛猫の神経が羨ましいが、流石に痴漢冤罪を放置する訳にはいかない。グリフィンドールが勇敢な寮など関係ない、きっとスリザリンでも同じ行動に移すだろう。こんな現場を目撃して立ち上がらないのは男じゃないと。
爆睡中の猫を左腕に抱え、右手の杖でレパロを唱えながら立ち上がると、突然登場した第三者にハリーと女子生徒が驚愕の表情を浮かべている姿が彼の目に入った。
「あ、駄目だ。こいつ重いわ」
しかし、面倒臭い状況や自身の立場を判り易く説明する気など毛頭ないは愛猫の体重から来る左腕の負担を口にして、体中に芝生や土を付けたままハリーに近寄り、その腕に茶色の毛玉を預ける。
「え、あの。えっ?」
「じゃあ、寮に戻るか」
欠伸を噛み殺し、涙を拭ってからハリーの背中を押し、城の入り口に向かう背中に金切り声が投げ付けられたので仕方なく振り返ると、顔を真っ赤にして目を吊り上げ、今にも歯軋りをしそうな女子生徒が拳を握り締めて立っていた。
流石にこれは起きるだろうと愛猫を横目で確認するが、まだ起きる気配がない。猫も彼同様昼寝が好きらしいが、俺はここまで寝汚くないと誰にでもない言い訳を口にする。
「ちょっと貴方、今の見たでしょ!?」
「何を?」
「ハリー・ポッターよ!」
「ああ、此処に居るな。うん、見えてるけど」
「そうじゃなくて!」
感情で頭が回らなくなっているのか、幼児のように地団駄踏む姿は非常に滑稽だった。
ボーイッシュで容姿はそこそこ整っているのに表情と仕草でマイナス点だなと評価だけして頭を掻き、ハリーがどうこうと喚いているのを無視して杖をしまう。
「何があったのかは大体判るし、世界中の男の敵が目の前に居るのは知ってる。痴漢のでっち上げはこの世もあの世も、過去も未来も含めた全ての男の心を一つにするけど、偉業じゃないな。全然」
「でっち上げじゃない! ハリーが無理矢理」
「いや、あのな。俺は日曜日生まれじゃないし、洗礼も受けていないし、瓜頭でもない」
「何を訳判んない事言って」
「マグル学を履修してなくても少しは塩をきかせろよな、悲鳴の後にボタンが飛ぶのはどうよって話だ。力づくでやられたにしては服の乱れが綺麗過ぎるし、止めろの一言も聞こえなかった。魔法を食らったなら距離と呪文の速度から考えてボタンが飛んだ後に悲鳴だろ」
ハリー・ポッターを陥れようとしたと寮監や校長に証言してもいいと口にすると、女子生徒の勢いは衰え、やがて舌も止まり、赤かった顔は青白くなって行った。強引に連れ出したのは彼女の方だと推測出来るのだが、相手が一体誰なのか忘れていたらしい。
生き残った男の子に痴漢冤罪を擦り付けようとした女子生徒が居る、その事がホグワーツ外に漏れれば魔法界の人々は彼女を探し出し、善良な良心の名の下に制裁を加えるのは目に見えている。
魔法界の中でも魔女狩りは成り立つ、人間という生物は正義を叫びながら悪に鉄槌を下すのが大好きなのだ。魔法使いもマグルも何も変わらないとは呟き、その場に立ち竦む女子生徒が口にする無価値な言い訳を無視してハリーの背中を押す。
「よし、今度こそ寮に戻るか。ああ、そうだ。昼寝の為に防音呪文してあったから俺の他には誰も気付いてないと思う、だから安心しろ」
「あ、あの、彼女は」
「無視しとけ。構うと感情論で自己正当化し始めて、男が悪いって結論にされるだけだ」
すっかり眠気は覚め、ハリーの腕に抱かれていた猫を引き取り両腕で抱えれば、寝言なのか甘ったれた声で首筋に頭を擦り付けてきた。
眠くはないが何となく羨ましいので、後で寮のベッドで寝直そうと心に決め、猫に案内された正体不明の隙間から城の中に入る。出来ればこのまま一直線にグリフィンドール塔へ行きたいが、先にやるべき事があると気付いたのか猫を抱え直す。
「はい、お疲れ。此処まで来れば大丈夫だろう、災難だったな」
「そんな。そうだ、ありがとうございます。助けて貰って」
「礼を言われるような事じゃない。女の痴漢冤罪とセクハラとパワハラは14世紀には定着していた伝統芸能だと確認済みだ、男なら当然の行動だよ」
「伝統?」
「デカメロンは、そうか、知らないか。ボストンでは禁止だから知ってたらまずい、いや、散文芸術だからまずくないのか?」
「メロン? メロンは知っています。ボストンでは禁止だったんですか?」
予想通りの解答には笑みを溢し、何度か軽く頷いてからメロンは好きかと問い掛ける。小腹が空いた時の為にストックしてあったチョコレートバーの袋を出現させてメロン味と書かれた緑色のパッケージを差し出した。
「その内判るかもしれないし、判らなくても生きていける。じゃあ、俺は野暮用があるからこの辺で。猫持ってくれてありがとな、寮には1人で帰れるか?」
「ちょっと待って下さい」
「うーん、案内が必要か」
「そうじゃなくて、貴方の名前を教えて貰っても」
「ああ、悪いな。気が利かなかった」
ハリー・ポッターの名前を一方的に知っているから、相手も自分の名前を知っている気になっていた。良くない事だなと内心で反省したは右手を差し出し、初対面の相手に向ける笑みを浮かべて力強く握手する。
「初めまして、俺はグリフィンドールの。お前の2コ上で5年生、ウィーズリーの双子と同い年だ」
「ハリー・ポッターです。はグリフィンドールだったんだね」
「顔は合わせるんだけど、まあ、目立つような事もしてないしな。基本的に校内うろついてるか、図書室で宿題に頭悩ませているか、今日みたいに何処かで昼寝してるから。寮や談話室に居るには居るんだけどさ、あそこは賑やかというか、五月蝿いから」
「そこを言い直すんだ」
「喧しいでもいいぞ」
握手していた手を離し、海外には女という字を3回続けて書くと騒々しいと読む文字が存在するらしいと不必要な豆知識を披露するとハリーは何ともいえない表情をしてから悪戯っぽく笑い、それ判るよと小声で同意した。
女の子は好きなんだけどなあとが呟き、天井を意味もなく見上げて、それからハリーに視線を戻す。
下半身と装飾品と財布に入った金貨の量で物を考える女から痴漢冤罪を食らいそうになった直後にしては動揺が少ないように見える、確かに、毎年修羅場を潜っていれば嫌でもその手の耐性は付くのだろうが。
「不憫だな」
「え?」
「いや、なんでもない。じゃあ、気を付けて寮に帰るんだぞ。それと、今後は知らない人間と2人きりにならないようにな。老若男女問わずあの手の人間は割りと居るから、どうしてもって時は友達の……フレッドとジョージの弟に相談しろ」
「ロンだよ。ロナルド・ウィーズリー」
「ああ、うん、そうだロナルドだ。ウィーズリー家は兄弟多いから混乱するんだ、まあ、兎に角、不審者や知らない人を相手に1人で行動しないようにな」
ウィーズリー家の人間は良い奴ばかりだから相談にも乗ってくれるだろうとが言えば、ロンは最高の親友だよと返される。生き残った男の子や例のあの人を撃退した英雄としてではなく、本当に友人として接しているんだなと思ったが、口に出すのは失礼だと思い直し、軽く右手を上げ礼儀として別れの挨拶をしておく。
また後でと言って廊下を走って行くハリーの背中を見送り、姿が見えなくなった所でさして深刻ではない溜息を吐いた。
「マクゴナガルに報告して、フレッドとジョージにもそれとなく言っておくか。俺が注意喚起しろってパーシーに言われそうだなあ、あの手のブスは頭が不自由だから抜本的な案を練る方が先だと思うんだけど」
一切起きる気配のない猫を左腕に抱え直し、杖を振ってポケットに突っ込んでいた物を取り出す。良い子ちゃんの格好などしたくないが、身嗜みに気を付けないとマクゴナガルに小言を貰う羽目になるし、自分の立場も悪くなるとは諦めたようにもう一度溜息を吐いた。
グリフィンドールカラーのネクタイと監督生バッジを身に付けたは、己の気持ちを全く隠す事なく面倒臭さそうに踵を返す。
そして猫は主人の気も知らず、彼の腕の中で幸せそうに惰眠を貪っていた。