[ モノノ怪 | 薬売り | モブ視点 ]
恋、何ぞに落ちるものでは御座いませぬよ。尤も、知らず知らずに道を外し、落ちたくて落ちる訳でも御座いませぬが。
はあ、まあ、都々逸でもあるまいし。三味線に合わせ、諦めきれぬと諦めたと申し上げるつもりも毛頭、はい。
ええ、けれど、美しい御方でした。未だ開けぬ夜に、対岸に見えたあの白い肌が雨に濡れて、それはもう。
夜目遠目笠の内、と。そうやも知れませぬが、笠は被って、いえ、頭巾はしておられましたが。お顔ははっきりと、はい。
それで、どうしたのかと。可笑しな事をお訊きになられる、何も、どうもしやしません。それですから、恋に何ぞと初めに申し上げたでしょう。諦めたのですよ、それは諦められるような、恋だったのですよ。
何があったのかと、聞いて下さいますか。道端の砂利と代わり映えのない話ですが、はあ、それでも宜しいと、そう仰って下さいますか。奇特な方で御座いますね。
ええ、私は、あの御方のお顔をはっきりと見たのです。見てしまったのですよ。
蒼い瞳は熱に溶けて、化粧で縁取られた唇とついと上げて、白い頬には紅が差しました。うっそりとね、あの御方は笑いました。
そうしてね、艶のある声で喚んだのです。誰とも知れぬ男の名でしたが、はっきりと。
あの御方の仕草の何も彼もが、恋する者のそれでしたから。私のそれよりもずっと深く、熱く、強い、あんなものを見せつけられては、諦める他にないでしょう。
喚ばれた方も、それは慈愛に富んだ目であの御方を見つめ返しておりました。褐色の肌をした美丈夫で、それでも何処かあどけない。
ええ、あどけない、方だったのです。鞠つきをする稚児のように、余りにも酷く真っすぐな瞳をしておりました。
慕っていは、いるのでしょう。受け入れてもいるのでしょう。
けれどもあの方の返すそれは、あの御方の焦げ付きを癒せておりませんでした。
間に入らなかったのかと、真逆、そのような事。
恋い焦がれて、欲するものも手に入れられない儘で、それでも隣に並んで、手を取り合って歩んで行ったのです。あの御方は。
無駄ですよ、私が何をした所で。あの御方は既に全てを選んでおられる、たかが一目で惚れただけの私如きが何を言おうと、音すら上げられぬ虫の声にも等しいでしょう。
花の蕾は咲かぬところに味がある、と巷では唄われておりますし、只々、それでも良いのだと好いておられるのでしょう。
ええですから、私の秘めた淡い恋何ぞ、たった一人の為に声上げるあの御方に届く筈も御座いません。