[ D.Gray-man | xxx | 流血気味 ]
意識を取り戻したのは強い臭気を帯びた酸性の液体に体が半分浸かっていたからだった。嗅覚が潰れそうなほどの刺激臭で目が覚めるのはあまり気持ちいいものじゃない。
目を開いても網膜は光を捉えなかった。眼球が抉られて見えないのか、辺りがただ暗いだけなのか、別にどっちでもいい。麻痺しかけた鼻で嗅いだ黒い血液の臭いに覚えがある。段々と、落ちる前の記憶が戻ってきた。
そうだ。ぼくは喰われた、それはもう頭からばっくりと上半身を。なら、ここはアクマの胃袋の中だろう。妙な所で体が修復されたみたいだ。
どんなアクマだったか。確か、鱗に覆われた肥満体の口裂け女、雌豚と蝙蝠と爬虫類的な何かを無理矢理交尾させたような、そんなアクマだったような気がする。新入りのファインダーが余りの醜悪さに腰を抜かして、そうだ、やっぱり食べられていた。
右手に触れる臓物の形をした石灰質の物体はきっと彼のものだろう。手触りからすると小腸だろうか。
それにしても空腹だ、吐いた息が凍るこんな寒い日には温かいブラッドソーセージが食べたくなってくる。
「ああ、お腹が空いた」
仕事が終わってホームに帰ったら肉料理をたらふく食べよう。少しハーブを利かせた新鮮な内臓料理だと尚いい。
いつだったか、冬の北国で食べた生肉の味を思い出すと腹に飼っている大きな虫が鳴いた。こうなるともう止まらない。
高いエネルギーを得るためだけの味気ない携帯食料はコートの中から零れ落ちてアクマの胃袋で溶けていた。胃液で溶け始めている灰のような元人間を食べるのは気が引ける。倫理とかそういったものじゃなく、咎落ちしたら目も当てられないという意味で。
だったら、食べる事が出来るものなんて、決まっている。
「いっただっきまーす」
触れた肉の壁、アクマの胃袋に牙を立てて食い千切る。不味い。肉の味も血の味もしない。外見は豚で爬虫類なのに肉は腐った黒いオイルに似た味がする。どうせなら脂が乗った豚とあっさりとしたトカゲの肉を合わせたような味が良かったのに。
でも、まあ、いいか。欲しがらないよ、勝つまでは。
二口、三口と順調に咀嚼いくと肉壁の向こうが煩くなってきた。頭の上で野太い悲鳴と甲高い悲鳴の不協和音が生まれる。比喩じゃなく内臓を食い荒らされているんだから普通に痛いはずだ。ぼくはもう慣れたけど。
内側からの痛みに耐性の薄いアクマの悲鳴を聞きながら順調に内臓を食い進めて行くと、真っ暗な胃の底に光が差し込んだ。外の世界が見える。体に空いた穴からは胃液が流れアクマ本人の肉を焼いていた。
穴に手をかけて左右に引き千切りアクマの体の中から這い出すと、足に引っかかった内臓も一緒に飛び出してきた。とはいってもほとんど砂のようなものだ、形を保つことが出来ずすぐに崩れてしまう。
雪の上で銃を構えていた中年のファインダーがぼくとアクマを見ながら悪夢だと呟いている。ねえ、折角復活したのにその言い草は酷いと思うんだ。仮にもぼくは味方だよ?
雪の上に放置されたぼくの鞄、主にぼくの大好きなコルム坊やが作ってくれた保存食が入っている大切な持ち物を安全圏に確保してから口から黒い血泡を吐いて倒れたアクマに近寄る。まだギリギリ生きていた。生命力が強いのも問題だよね、例えばぼくみたいに。
ああ、よく聞くと命乞いのような事を言っている気がするけど。
「助けて欲しいなら人間様の言葉を喋ってね」
優しくそう言ってあげて、脳天に脚を振り下ろす。硬い鱗が飛び散って、臭くて黒い脳漿が雪を汚した。
完全に沈黙したアクマの傍らにはイノセンスが転がっている。ぼくがアクマの胃袋にいる間も無事だったらしい。あとはこれをホームに持って帰れば今回のおつかいは完了。
「さあ、帰ってまともな食事をしよう」
道化師のように両手を上げて言ったぼくの額を、一発の弾丸が通り抜けていく。周囲の敵は殲滅した、今居るのは。
「お前はエクソシストなんかじゃない! この化物!」
味方のファインダーがひとり。
震える両手には小さな銃。こんなものじゃぼくは死ねない。ガトリングだって無理だった。戦艦の巨大な大砲だってきっと無理だろう。
ぼくから流れだした赤い血が雪を汚した。紅色の生の匂いにまた腹の虫が鳴く。さて、どうしようか。
パン、パン、と弾が発射される音。ぼくの体に増える穴に、煩い胃袋。発砲音が鳴り止んだと思ったら、恐慌状態のファインダーに肌を露出した部分、つまり顔を刺された。痛いし胃袋と悲鳴が煩い。
骨や脳まで刺される感覚にいい加減嫌気が差してきた頃、唐突に何処からか発砲音が聞こえた。馬乗りになっていたファインダーにヘッドショット。黒い雪の上にピンク色の脳が散らばった。
「遅くなりました」
やってきたのは年配のファインダー。ぼくとも何度か組んで、一緒に死地をくぐり抜けて来た精神的にも肉体的にも屈強な男。変なぼくにも動じず合わせられる変な人。
新人補佐の為に後から来るとは聞いていたけれど、本当に来た。教団は何時だって慢性的な人手不足だから来ないと思って結構な額を賭けていたのに、アクマの胃袋の中で再会したファインダーと。
「ホームに帰らずに来たの?」
「はい」
「ふうん」
相変わらず仕事熱心な男だ。おかげでこの年になっても奥さんが貰えていない。いや、貰わないのか。彼は仕事に重点を置き過ぎて自分が家庭を不幸にするタイプの男だって判っている。素晴らしいね、仕事一筋。
「ねえ」
「はい」
「ぼく、お腹が空いた」
「宿を取ってありますので、ちゃんとした食事はそこで」
言いながらこの男は自分の分の携帯食料を差し出す。
「それは君のだからいいよ、でも軽食取るからちょっと待ってて」
「ではその間に本部に報告を」
「よろしく、イノセンスは無事保護、第一次ファインダー部隊は全滅」
「承知しております」
大きな通信用の箱で連絡を取り始めた男から離れて、ぼくは食事に取り掛かる。大小の歯車を退けて中の肉を食らい、オイルを啜って飢えを満たした。
粗方食べ終えて手に付着した黒い液体を舐めとっていると簡易報告をし終えたファインダーがぼくを見て、何も言わずに歩き出した。
鞄を掴み、雪が窪んでできた足跡に付いて行く前にアクマの残骸を振り返る。大きな黒い肋骨が雪の上に鎮座している姿は中々幻想的だ、悪夢という意味合いでだけど。
黒いオイルに塗れた体で鞄の中を漁るとミンスパイが出てきた。口直しに食べるとブランデーに漬かっていたドライフルーツのずっしりとした重い味が広がる。
ああ、空腹が満たされて視界が霞む。今日もぼくは疲れている。