ダミー・デイジー
「今度こそって毎回思うんだけどね。また、振られちゃったわ」
マニュキアに守られた指先がグラスを弾く。氷が解けて積みあがった形が崩れる涼しい音がした。それっきりの、静寂。
経験上、今の彼女に慰めは不要だと判っていたので、何も言わずに赤い液体が揺らめくカクテルに口付ける。
アルコール耐性が全くない自分の頼んだ、偽りの雛菊の名を冠したカクテルはライムジュースの比率が多く、甘さが控えられていた。
格好からか、仕種からか、雰囲気からなのか、無口な自分は常に何処に行っても甘さが控えられた物を出される。本当はそうでもないのにといった言葉は、出すタイミングを掴めずに胃の中に落ちていく。
隣に座る女性、ネイサンは魅惑的な笑みを含んだ表情でもっと自己主張をしなきゃ駄目よといつも言う。全力で空気を読んでなあなあで済ませてしまう若く典型的日本人の自分には不可能な注文だった。そういう自分の意見をはっきり言うのは仕事の時だけでいい。
彼女を守る鎧を作る、仕事の時だけでいい。
「ああ、どこかにいい男が落ちてないかしら」
強く逞しく美しい人、ネイサン・シーモア。ヒーロー業と社長業を両立させ、愛に溢れ恋も自分磨きもやってのける、憧れの人。
そして、分不相応にも、自分が恋をしている人。
「ねえ、技術開発部に私好みの子はいないかしら?」
静かに首を横に振れば、それもそうねえ、と返された。
彼女が恋を失った後に必ず繰り返されるやり取りに、胸の内側が針の先で引っかかれる痛みを感じる。
自分では駄目なんですかという言葉は彼女に届く前に骨と思考の内側で圧殺する。駄目に決まっている、だって彼女はヒーローで、社長で、溢れるほど愛を持った素晴らしい人で、対して自分は無口で臆病で、単なる技術開発部の主任研究者で、愛を持たず恋にだけ身を焦がすただの馬鹿だ。
「技術開発部の研究員は皆ほっそりした色白男で好みじゃないし」
仕事が趣味の引篭もり集団ですから、と心の内で答えておく。クロスカントリーとバイアスロンが趣味である自分は開発部の中でも特殊な部類に分類された。何と言っても、研究員達につけられたあだ名が軍曹であるのだし。
「は私好みのいい子だけど、磨きに磨いた5年後に期待ねえ」
毎回こうして冗談めかして言われる言葉に傷付いている事を隠して、期待していて下さいとだけ感情を乗せずに言っておく。これも、いつものやり取り。
勤め先のオーナーであるネイサンとこうして飲む仲になってから3年以上経っても、いつも期待されるのは5年後という永遠のやり取り。
残っていたカクテルを舐めるように飲み干している最中、聞き慣れた電子音が耳に入ってきた。彼女と同じくこの街を守るヒーローの一人、ロック・バイソンからの呼び出し音。
今日はここで潮時かと席を立って、会話に夢中なネイサンに軽く手を振り別れを告げる。視界の端で動いた自分の腕の影を捕らえたのだろう、幸せそうな顔で彼女も手を振った。
マスターに二人分の勘定を払って店を出ると、夜の街が自分を迎えてくれた。馴染みの店で女性と温もりを分かち合おうかと思ったけれど、空しさに精神が死にそうになりそうだったので止める。
男物の衣装の中、サラシの下で押し潰された胸が圧迫されて痛い。
薄暗いガラス窓に映った自分はどこまでも、男装をした女に過ぎなかった。