食物連鎖終結点
雪と氷に閉ざされた大地から数ヶ月振りに帰って来たは、久々に顔を会わせる事の出来たマルコムに笑いかけながらそう言った。
「凍傷がちょっと酷いらしいけど動く事はできるし、明日からの任務には差し支えないよ。坊やが今度は有り難い事に砂漠の国に割り振ってくれたし、どうせまた餓えて、内臓を引き出すことになるだろうけれど、寒いのはもうしばらく嫌だからね」
「全く。誰もが貴方のように仕事熱心であればと、常々思いますよ」
「またリナリーのお嬢ちゃんが脱走したかい? それとも、いつも通りクロス坊やが言う事を聞かないのかな?」
黒の教団内でも特に仕事熱心でないエクソシストの名前を上げてみせると、マルコムの表情が険しくなる。残念だけどお仕置きをする暇は無さそうだと呟けば、それは貴方の仕事ではないと睨まれた。
確かに、の仕事はエクソシスト達の監視や教育ではない。そんなものは元帥達に任せて、彼自身はイノセンスの回収をして、アクマを片っ端から破壊していけばいい。何よりもまず、外見が少年で言動が軽薄故に古参扱いされないのだから。
目を通していた書類を机に投げて大きく一つ溜息を吐いたは、投げられた紙束の近くに山のようなお茶菓子が放置されていた事を今更気付き、目を細めながら天辺に置かれた一つを手に取った。説明を始める前に口に入れれば、この年下の親族に散々言葉攻めされるのは判っていたので、合図を待つ忠犬の目で飼い主と餌を交互に見る。
「月餅というお菓子です。古くから中国各地に」
「食べていい?」
「元は中秋節と呼ばれる」
「食べていい?」
「因みに月餅という言葉の意味はムーンビスケットと言って」
「食べていい?」
「……」
「ねえ、コルム坊や。食べていい?」
「……どうぞ」
「わーい!」
諸手を挙げて喜びを表すと、とても中身が老人だとは思えない幼さで月餅を頬張っていく。流石寄生型と言うべきか、食べる量と速さは一般人の比ではない。先程まで駒として真面目な顔をして仕事の準備をしていた人物とは思えない変貌振りだったが、その事についてはとうの昔に不問にしていた。
仕方なく溜息一つを零してお茶を淹れると、マルコムと同じ色をした大きな目がふにゃりと笑う。口一杯に頬張っていた月餅を飲み込むと、口端に餡を付けたまま味覚から直結した感想を素直に口に出した。
「おいしい!」
「……にそう言って貰いたくて、作っているようなものですよ」
ナプキンでその汚れを拭ってやりながら言うと、子供にしか見えない笑みが返ってくる。いつも底知れない狂った笑みとは違う、ちゃんとした、人間らしい笑みだった。
「ぼくに作ってくれたお菓子並べて、その内に本なんか出しちゃったりしてね。ぼく買うよ、保存用と自宅観賞用と移動観賞用と世界各支部布教用に、経費で」
「自腹で買って下さい」
「じゃあ出版してね、約束だよ。コルム坊や」
「……気が向いたら、そうしますよ」
謀られたのか、そうでないのかは判らなかったが、妙な口約束を取り決められてしまい、マルコムは再び溜息を吐く。別に嫌ではないのだが、矢張り良く考えると嫌だった。の嗜好が他人に知られるのは非常に面白くない。
さっさと撤回してしまうと口を開くと、それより速く、お茶で口を潤していたが再び口を開いた。
「世が世なら、コルム坊やは優秀なパティシエに為れたかも知れないね」
「ではは、その常連客といった所ですか」
「まさか」
いつの間にか最後の一個となっていた月餅を飲み込んだは、蜜で濡れた手を濡れ布巾え拭いながら言葉を続ける。
「そんな平和な世界だったら、ぼくはとうの昔に老衰で死んでいるよ」
あくまで、平然と。あくまで、笑いながら。
体内に寄生されたイノセンスによって強制的に生かされている元人間の言葉に、マルコムは急速に現実へと帰還させられた。用意したお菓子は終わってしまった、瞳には既にあの笑みはなく、いつも通りの狂った色彩が塗りたくられている。
「いや、普通の人間でもまだギリギリ生きてはいるのかな? どうなんだろう、コルム坊や」
「そうですね。多分、生きているかと」
「でも一般人は頭開かれたり胸開けて内臓ぐちゃぐちゃに掻き混ぜたら流石に死ぬからねえ。どの道、君に会う前にぼくは冷たい土の下だろうね」
「平和な世界でも、そんな異常事態になりますかね」
「世界が平和になっても……」
言いかけていた言葉を噤みしばらく黙っていると、部屋のドアが控え目にノックされた。マルコムが返事をすると、最近になってようやく見慣れ始めた東洋人の男が険しい顔で入って来る。名前はコムイ・リー。脱走常習犯の少女、リナリー・リーの兄だ。
コムイは僅かに殺気だった目でマルコムを睨み、次いで可哀想な物を見る目でを見下ろした。どうもリナリーの待遇に不満がある、とか、そういったシスター・コンプレックス全開の不満を言いに来た訳でもないらしい。
「に次の任務が入ったと聞きましたので」
「北アフリカのフランス領で怪奇事件が多発しています。イノセンスの線が濃いのであれば、エクソシストを派遣するのは当然でしょう、何が不満なのですか」
「彼は、は昨日瀕死で帰って来たばかりなんですよ!?」
「だったら何だというんです」
声を荒げるコムイに対し、マルコムはどこまでも冷めた口調で切り替えした。
「これは戦争です。エクソシストは駒、イノセンスは武器。我々人類がアクマ共を、千年伯爵を倒すにはより多くの駒と武器が必要なんです」
「駒、って」
「お望みであればリナリーも同行させましょうか。そろそろ一人前の駒として戦ってもらわなくては困るのでね」
「貴方って人は……!」
「あー。お二方、ぼく帰っていいかな? なんか口挟めるような雰囲気じゃないし、今思いっきり挟んだけど」
唇を噛み締め、拳を握ったコムイの様子を見学していたが発言権を貰う為挙手して、誰からも指名を受けないまま口を開く。開きながらも既に腰が浮いている。そして書類を手にして立ち上がった。
好きにしろ、と言った風で無言でマルコムが手を振ると、が深々と一礼して踵を返す。背中にコムイの視線を感じながらドアノブに手を掛けると、本当にこれでいいのか、と声を掛けられた。
「他に道がないのは判っています。数少ないエクソシストしかアクマと戦えないのも判っています。けれど、身内に、血縁者に駒呼ばわりされても、それでも貴方は……!」
悲痛な声がに届いたのか、見目だけは幼過ぎる姿をした老人は振り返りながらドアを開けた。部屋の中に差し込んだ廊下の光で、彼の笑みが不気味に浮かび上がる。
「うーん、どうなんだろうね。ぼくは自分の異常性を認識している正常者だから。喩え、世界がどんなに平和になろうとも、基本的にぼくはそう在り続けるのだろうね」
そこで言葉を一区切りすると、歪んだ視線が一瞬マルコムに向いた。しかし、コムイだけはそれに気づかないまま青褪めて立ち尽くしていた。
「将来有望なまだまだ青いコムイ坊や。詰まる所はね、ぼく自身はエクソシストを駒呼ばわりでも何でもすればいいじゃない、と思っているんだよ。だって実際、ぼくはとても便利な、死なずの駒なのだし」
人間という環から外れ老いと死から遠い場所に佇んでいるの言葉は、静かな空間をゆっくり漂ってから消える。発言主はそれぞれ別の理由で呆然とする若造二人を部屋に残し退室すると、擦れ違う教団関係者に暢気な挨拶をしながら割り当てられた自室のドアを上げ、ベッドに寝転んだ。
綺麗な白いベッド、清潔なシーツ。新品同様の壁紙と鉄格子が嵌った窓。数ヶ月前に出た自室とはまるで違う片付けられっぷりに感心すると、石が剥き出しになり赤く染まった天井をぼんやりと見上げる。
「……お腹空いたなあ」
ぽつり、と呟かれたその言葉も石壁に当たるとすぐに何処かに消えてしまう。
「お腹空いた」
先程食べた山のような月餅の事など無かったようにもう一度呟いて、そしてベッドから身を起こして部屋の中をくまなく物色し始めた。
ベッドを投げ出し、シーツを引き裂き、マットを切り裂いて出てきた綿を食む。枕から毟り取った羽を咀嚼し、引き千切った壁紙を口の中に詰めていく。
「足りない……どうしよ、お腹空いたのに」
床に散ばっている書類は流石に食べたらまずいだろう。味ではなくて、後々の仕事が、という意味合いで。記憶力が弱いには、形に残るこういった書類が必要不可欠だ。
「コルム坊やとの話を遮られるといつもこうだ。すぐに餓えて、すぐに乾く。こんな時こそ、あの子のお菓子をお腹一杯食べたいのに」
遂に鳴り出した腹の虫を叩いて黙らせると、目の前に現れた真っ赤な壁を眺めながらぽつりと呟く。鉄臭い臭いが部屋の中に充満し始めるが、そんな事はお構い無しにお腹が空いたと呟き続けた。
「……あ、そうか。一杯食べたいなら、何度も食べればいいんだ」
ぽん、と両手を合わせて誰も居ない空間でにっこり笑ったは、短剣を手にして咽喉にぴたりと当てる。切っ先はそのまま皮を切り、肉に食い込み、体を縦に刻んでいった。
血液が胸から腹、脚を伝って垂れて足元に赤い池が出来る。雪のように散ばったベッドの綿がそれを吸うと、じんわりと鮮やかな色に染め上げられた。
白い手が、慣れた手付きで今開けられたばかりの胸の中に沈んでいく。目的の物がある位置はついこの間も確認したばかりだから楽だった。体の内部が掻き回される度に湯気が激しく上がり、滝が池に降り注いで行く。
「あったあ」
探し物が見つかりは嬉しそうにそれを引っ張り出した。血に濡れた内蔵が、膨張した胃が、子供の手の中で赤く光る。
「いただきます」
真っ青な唇が赤に向かう、白い歯、ピンクの舌。それは当人が飽きるまで何度も何度も繰り返される、異常者の狂気に満ちた血塗れの食事風景だった。