曖昧トルマリン

graytourmaline

微睡鳥の繭籠り

 フェンスが軋む音に、始が伏せかけていた目を開け、背後を振り返った。
「……続、どうして」
「おれが場所、教えたから」
 強く握り込み怒りで震えている始の拳をそっと制し、同じように立ち上がったが表情を崩す。
 不自然なまでに余裕のあるの態度に、弟の感情に不安の色が濃くなっていくのを始は見て取った。暗闇の中で月光を背にして、表情まではよく見えない。
「……君」
 絞り出されたような、辛そうな声。
 始はそれを、20年近く付き合ってきて、初めて聞いた。誰かに縋るような、己を戒めるような声。弟が傷ついているとはっきりと理解出来ているのに、当人は全てを許しているのに、それでも始は許せる気持ちになれなかった。
 叶わなかった恋とはいえ、愛した人間を陵辱し恐怖に陥れた加害者が目の前にいて、冷静になどいられない。たとえ弟でも、いや、弟であるからこそ余計に。
「すみません」
「続さん?」
「すみませんでした……兄さん、君を頼みます」
「なっ、待って続さん!」
 そう言いながら姿を消そうとした続をは叫ぶように呼び止め、それよりも速く、始が駆け出し腕を掴む。
 口を開きかけた弟を凄まじい怒気と含んだ視線で見下ろして、湧き上がった感情から震える口唇からやっと言葉を吐きだした。
「今のは、どういう意味だ?」
「ぼくよりも、には兄さんが相応しいと思ったんです」
「いい加減にしろ!」
 耳障りな音を立ててフェンスが軋む。
が、どれだけ傷付いているのか分かって言っているのか!? こうなってまで、全部真正面から受け止めてまで、は!」
「始さん! もう大丈夫だから、後はおれ、一人で出来る、だから……!」
 力など持たず、細く頼りない体がなんとか2人の間に入り、怒鳴り声に対抗するように声を荒げて制止する。
 それでも、始は続を掴んだ手を離そうとせず、言葉を止めることもなかった。
はお前にやられた事を許して、それでも愛していると言っているのに、何もかも勝手に決め付けて、どれだけを蔑ろにすれば気が済むんだ?!」
「始さん!」
はお前を愛してるんだ! おれじゃなく、お前を、なのに」
「そんな、冗談でしょう、君は兄さんを愛しているんじゃないんですか? それにぼくは、彼を」
「それでも続を愛していると言っているんだ! だからっ……だから、の話を最後まで聞いて、選べ。逃げるな。それだけは、絶対に許さない」
 間に入るが泣きそうな表情をしている事に気付いた始は、昂ぶっていた感情を辛うじて抑え込み、兄や家長ではなく同じ人間を求めた男として命令を下した。
 奪えないと思い知らされたのなら、せめてこれ以上傷付かないよう取り持ち、送り出すべきだと、最後の愛情に従った結果だった。
「今、が求めているのは、おれじゃない。お前だけだ。もう一度言う、勝手に全部決め付けて、楽な方へ逃げるな」
 耐えるようにしてそれだけ言うと、始は弟から手を離し、引き止めようとする表情を一瞥して夜の闇に姿を消した。
 残された者たちの間に、沈黙が降りる。
 しかし、それもすぐに破られた。
「……続さん。おれの話、聞いてください。最初から」
 月光に浮かび上がった顔色は青白く、指先と声が僅かに震えていた。
 それでもは覚悟を決めた表情で気丈に振る舞い、真正面から続と視線を合わせる。
 その場から足を動かせないまま、それでも頷く続に安心したのか、強張っていた肩から少しだけ力が抜かれた。
「続さんに、好きだって言われた時、凄く嬉しかった。おれも、続さんが好きだから、ずっと前から貴方が好きだった」
 でも、との視線が過去を向く。
「不安だったから、返事できなかった。おれ、本当はこんな風で、優等生に見えるように皆を騙していただけだから。続さんが、穏やかで優しいおれを好きだったら、付き合えてもすぐ失望されて捨てられると思ったんだ。それに、前世の、続さんが読んだあれも」
 前世の事を言及され、続は何か言おうとしたが、言葉を飲み込む。
 今更、自分も同じ夢を見ていたと言っても信用されないと気付いたのだ。あのファイルの存在を知り、中を見てしまった以上、どれだけ詳細に自分の気持を語っても、そこから得た知識だろうと返されてしまう。
「最初は、敵対してたから言えなかった。でも、そう思い込んで逃げてただけだった……本当は、紅竜王が怖かった。紅竜王と続さんの区別が、出来なくなってた。夢の中で、前世として終わった話だけど、何度も戦って、捕まって、繰り返し殺されるのが、ただ怖かったから、無意識に、気付かないようにしてた」
「それは」
 昨日、隠し事をしているだろうと追い詰めてしまった時に見せた表情は、その恐怖が原因かと問おうとした続の言葉を、は遮った。
 しかし、その答えは求めていたものとは少し違っていて、先を行っていた。
「違う。今は、違うから。ちゃんと、紅竜王と続さんは違うって、分かったから。始さんと姉さんも、そう。おれも、あの鳳凰じゃない。続さんに送ったメール、あれは、おれとあいつは違う生を歩むから、せめて未練だけは残さないようにって思って、続さんは紅竜王じゃないから、本当にただのケジメみたいなものなんだけど。おれはもう鳥羽として生きていくからって、自己満足」
 長い孤独の中で足掻き、苦しみ、その末に辿り着いた鳳凰とは真逆の結論に、続は息を呑んだ。
 生への執着を手放し、どうかこのまま死なせてくださいと穏やかに笑いながら、何もかもを拒絶する目をしていた鳳凰の残像が、から消える。
 結局、自分は何の力にもなれなかったけれど、彼を支えたのは兄だったけれど、それでもとして存在していられる事実に涙が溢れた。
 彼が鳳凰の呪縛から逃れる事が出来たのなら、それだけで十分だ、と。
 その涙を見て、の言葉が止まる。
「続、さん?」
「何でもありません。ただ、君が、鳳凰ではなく、人として生まれてよかったと。あの墓前の懺悔は尽く無意味になって、ぼくは君を守るどころか、こんなになるまで傷付けて」
「……そんな、今の、ねえ、続さん」
君?」
 衝動的に続に駆け寄ろうとして、けれど踏み止まったが驚愕の表情のまま口元を手で覆う。
「おれと、同じ前世、知ってるの?」
「……なんで」
 言外に肯定した続に、は今にも泣き出しそうな声で言葉を絞り出した。
「だって。だって、おれ、書いてない。そこだけは、何にも残してない」
 今日の昼間に見たばかりの前世は文字に書き表せることなく、の頭の中にしか存在していない。続が知るには、の部屋に残された物以外からしか道はない。
 長い間起こっていた擦れ違いを互いが気付き、表情を隠すように俯いてしまった細い体を呆然と眺め、そして弾かれたように続が動き出す。
 前世を悔い悪夢から逃れる為だと勘違いされたくない。夢の中の鳳凰を救いたいがために現実のを助けたと思われたくない。前世は全てきっかけに過ぎない。今の自分が好きなのは、愛しているのは今のだけだと告げる前に、涙に濡れた顔が続を仰いだ。
「ずっと、助けてくれてたの? あの鳳凰にならないように」
 破裂寸前の不安を打ち消し、動きを制止させたのは、今までの続の言動から正しく気持ちを汲み取ったの言葉だった。
「続さんが初めて、寂しいって気持ちに応えてくれた。一人にならないように、他人を信じられるように、あの鳳凰から遠ざけるように、何年も隣にいてくれた。ただ、続さんが優しい人なんだと思ってた。偶然じゃ、なかったんだ」
 好きだから好きなんだと思ってた、と囁くような声が辛うじて続の耳にまで届く。
「だからおれ、続さんじゃないと駄目なんだ」
 声で、表情で、仕草で、全身で、貴方を愛していると告げたを間近で見て、続の呼吸が一瞬止まる。
 次の瞬間には、考えるよりも先に体が行動を起こし、伸ばした腕で幼い体を掻き抱く。夜と月光に晒されて体の至る場所が冷たくなっていたが、触れ合った肌から伝わった鼓動だけは壊れてしまうのではないかと思われるくらい速く脈打っていた。
 二度と離れないよう腕の中にずっと閉じ込めていたい、このまま境界すら消して溶け合ってしまいたいと願望が溢れ出て、自然と抱き締める力が強くなる。
 君、と、祈るような甘い声で名前を呼ぶと、何故か困惑を帯びた声が返って来て、そこで続はようやく顔を上げた。
「待って、続さん。おれ、まだ」
「まだ、他にあるんですか?」
 安堵と愛情で満たされた執着心でドロドロに融けていると自覚している視線を向けると、の頬に朱が差して顔を逸らされる。
 そしてそのまま、は会話を続けた。
「おれ、良い子じゃない。優しくない。ネガティブで、独占欲強くて、嫉妬深い」
「その感情がぼくだけに向けられているのなら、むしろ歓迎しますよ」
 の独占欲と嫉妬など、自分に比べたら可愛いものなのに、とは言わなかった。この少年にとっては、今まで口に出す事も出来ないほどの重大な秘密だったのだから。
 兄への嫉妬で狂っていた自身の姿すら思い出せないほど罪悪感で一杯なのだろうと続は笑い、まだ少年から抜け出せない、柔らかさを保った頬をゆっくりと撫でる。
「でも、手紙、見付けた時に優しい子だって」
「あれは、ぼくの失態です。あの手の物は受け取りを直接断ると後々面倒なので……いえ、これは言い訳ですね。本当は、手紙を仲介する君を優しい子だなんて一度だって思って事はないんですよ。何処の誰とも知らない相手と君が会話したと証拠を提出される度に、怒りを抑えるのに苦労していましたから。だから、騙していたのはぼくも同じです」
「続さんはそれだけかもしれないけど。赤の他人で済んでいるけど、おれ、姉さんも駄目なんだ。姉さんに優しくする続さんが嫌だった、2人で相談してるの知って嫉妬した。それなのに、始さんと」
 パニックに陥りそうな姿を見て、言葉の捌け口を塞ぐように不意打ちのようなキスを仕掛ける。抱かれるだけの理由を推測し納得した理性と、その先は聞きたくないという嫉妬から来る行動だった。
 すぐに唇を離して、が言葉を紡ぐ前に続が言った。
「兄さんとの事は、もういいんです。いいえ、兄さんがいたからこそ、君とこうして……いえ、それよりも、君にあんな事をしてしまった方が」
「説明出来なかったおれにも、非はあるから。それに、あれがただの暴力だったら、多分、続さんに見限られたって勘違いしたままだった。おれの事が好きで、だから許せなくて、抱いてくれたんでしょ」
 おれの方が続さんよりも強かったら、姉さんに嫉妬して同じ事を続さんにしたと思うとは言い、想像だけで嫌な気分になったのか続のシャツを掴む力が少し強まった。
 だから互いに許そう、そう言いたげなの意を、続は汲んだ。
「そうなると、茉理ちゃんとどう接触するべきかが問題になりますね」
 話は終わったものの、残った問題を続は口にする。竜堂家は君と茉理ちゃんとで生活が成り立っているようなものですからと呟き、腕の中の少年の顔を撫でる。
「茉理ちゃんの事なんて考えられないくらい愛してあげますよ。と言っても、解決にはなりませんから、きっと駄目でしょうね」
「……うん」
 若干の間は開いたが、それでも素直に嫉妬を認め頷く姿を愛おしく思いながら、続は妥協可能な点を探り、見付けて、言葉にした。
「再来年の春まで、待ってください。そうしたら、誰が何と言おうと一緒に家を出て、2人で暮らしましょう」
 現時点で同棲を始めるのは困難だった、続も終と余の兄なのだ。そうである以上、何の準備もないまま竜堂家を飛び出す訳にはいかなかった。
 また、幾ら好きになれない叔父夫婦とはいえ、流石に義務教育中の子供を親元から引き離すのはまずい事であるとも自覚している。
 だから君が高校生になるまで待って欲しいと言うとは不安そうな表情で、しかしはっきりと頷いた。
「幸い、貯蓄はそれなりにありますから。まあ、もうアルバイトは出来ないのでしばらくは節制が必要ですが、その辺りは何とでもなります」
「続さんのって、お金貰って女の人と話したり、色々するんだよね。おれ、それは別に気にしないよ、仕事だから。優等生のおれを否定して、姉さんに嫉妬したのは、続さんが本心から優しく接してたからだし」
「……君とぼくとでは、嫉妬の方向性が少々異なるようですね」
 赤の他人の僅かな接触すら許せない続と、たとえ親愛でも情を注がれるのであれば相手が身内でも許せない。その構図を脳裏に描こうとして、続は苦笑した。
 自分だって、この世界で唯一尊敬している実兄すら許せず、始に庇われるを見た瞬間思考を放棄し激昂したではないかと。
 が続と茉理の関係に嫉妬するように、続もまた、今後と始が2人きりで何かするような事があれば到底許容が出来ないのは目に見えていた。
 勿論、始には感謝している。今回の騒動の全てに非があるのは自分で、兄は常に正しい事をしていたと、兄がいなければ全て壊れていたと、続も分かっている。
 けれど、それでも、理屈ではなく嫉妬してしまうのだ。
「ねえ、続さん」
「どうしましたか」
「おれも、続さんの事、愛してます」
 嫉妬で満たされていた思考に挟み込まれた脈絡のない言葉に続の舌と思考が停止する。その隙を縫って、は踵を浮かせて触れるだけのキスをした。
「告白の返事。ずっと待たせて、ごめんなさい。ずっと好きでいてくれて、ありがとう」
 もう一度背伸びをして続にキスをしようとしたの後頭部を支え、引き寄せて、深いキスを仕掛ける。
 遠回りをしてやっと手に入った。もう二度と離さない。互いの主張が言葉にならないままキスとして表現され、屋上のフェンスに影を重ね、やがて離れる。
君」
「うん」
「愛しています。ずっと隣に、ぼくの傍にいてください」
「はい、今度こそ」
 が紡いだのは、ただその一言。それだけで、今の2人には十分だった。
 長かった彼の夢は、ようやくあるべき場所へ辿り着いた。