彼女の娘、彼等の姉
部屋に着いたら家主にシャワーを借りてクーラーと扇風機で涼もう、手に下げた袋を大きく揺らさないよう気を付けながら数分後の予定を決めた終は廊下の一番奥に位置する扉を目指した。体力の面ではトライアスロンやフルマラソンでも汗一つかかない自信が彼にはあったが、太陽とビル風に乗った熱風とアスファルトの上中下からじっくり蒸し焼きにされて平然としていられるほど哺乳類を辞めてはいなかった。
夏休みに入った小学生達が何処かではしゃいでいる音と蝉の声を背中で聞きながら扉の前に立つと良い匂いが漂っている事に気付く。昼食の準備か夕飯の下拵えかをしているのか、どちらにしても食欲を唆る香りを吸い込み、鼻歌交じりに竜堂家の玄関とは真逆の薄く狭い扉を開けた瞬間、彼は考えるよりも先に扉を閉め、脳が現実を認識してからやっと疑問を口に出した。
「……なんで姉貴の家に続兄貴がいるんだ」
真っ先に目に入ったのは茶色っぽい髪に華やかな美貌を持つ長身の、男性。何故か扉の先に立っていたのは終の姉ではなく兄だった。しかも、長兄ではなく次兄だ。
この部屋の住人である竜堂家長姉のと次兄の続は同じくらい気性が激しく性悪の玉座を豪速球のラリーで押し付けあっているような仲で、五姉弟で最も相性が悪いというのが親族一同の共通認識となっている。更に付け加えるのなら、は余の前でのみ言動が柔らかくなり、続は始の前で比較的大人しくなるので、手加減無用の喧嘩に巻き込まれがちな哀れな三男坊は特にその考えが強い。
は家事を取り仕切っている権限を用いて続のテリトリーに土足で侵入する事もままあるが、逆に続がのテリトリーに踏み入る事は余程の理由がない限りない、はずだ。事ある毎にいがみ合ってはいるものの恒常的に憎み合っている訳ではないので終としても断言出来ないが、兎も角、今現在続がの家に居る事だけは変えようのない事実であった。
さてどうするかとぶら下げた袋を見下ろし、今後の方針を思案した直後、目の前の扉が開く。目の前に現れたのはやはり次兄だった。
「人の顔を見るなり扉を閉めるとは随分なご挨拶ですね、終君」
「いやあ、幻覚の可能性が浮上したから一度現実に立ち戻ろうかと思ってさ」
「そうですか。では現実と納得出来るまで炎天下の中で突っ立ってなさい」
「冗談。冗談だってば」
扉を閉めるついでに施錠までしそうな続を呼び止めた終は半開きになった隙間にするりと入り込んで機械の作り出している天国を享受した。
竜堂家にもエアコンは存在するのだが家長である始に操作権限があり、その当人が人工的な冷気を嫌っている為、滅多にスイッチが入る事がない。それに不満がない訳ではなくもなくないとかなり遠回りな感情を抱いている終は、暑いものは暑いのだから体育会系根性論や敗戦末期の日本軍的精神論で日本の暑気を乗り越えようとするなど愚昧の極みと一切の間を許さずエアコンを稼働させる姉を好いていた。
どのくらい好きかというと。
「あら、終。今日も来たの」
「今日も? そんな頻繁に通っているんですか」
「いやいやそんな、週の3分の2を50%オフして2分の1で割ったくらいの頻度だって」
「ほぼ毎日じゃないですか」
夏休みという事もあり週5での家に通い涼を取っている終は悪怯れなく笑い、だって姉貴が来ていいって言ったからと呆れがちな続に対して自らの正当性を主張する。
「余君に対しては特にですが、年少組に甘いんですよね、姉さんは」
「甘い、甘くないの問題じゃないわよ。エアコンが無骨なインテリア扱いされてる家にはいつでも来られる避難場所が必要でしょう、ま、ついでにご飯を食べたい時は前日までに連絡必須とは言っているけど。今日は持参してきたのよね?」
「勿論」
終が持っていた袋を受け取り、そこそこ値の張りそうな5人前の各種弁当と2リットルサイズのお茶が入っている事を確認したは軽く頷くと顎で浴室を指した。
「部活の助っ人して来たんでしょう? ご飯より先にシャワー浴びるなりして汗流しなさいな。ユニフォームもあるなら一緒に洗うから下洗いして洗濯機に入れておきなさい、帰る前には乾くでしょう」
「うん、ありがと」
「お弁当は全部食べるの? 幾つか残して持って帰る?」
「腹減ってるから全部食べる! 今日はバレーの試合で大活躍してさ、10点取る毎に弁当1個追加だったんだ」
「元から受け取れる数と総試合数とセット数の勝数を言わない辺り、悲惨な結果が目に見えていますね」
「それは邪推ってもんだぜ」
「おや、それは失礼。では終君個人ではなく、チームとしての勝率はどの程度だったのか訊いても構いませんね」
「……ゴソーゾーにオマカセします」
「愚弟共。アホ丸出しの漫才やってないで終はシャワー浴びなさい。続はスープよそって」
擂り潰すような冷めた視線で浴室に叩き込まれた終はベタつく汗をシャワーで流しながら兄がここに居る理由を尋ねなかったなと思い出し、次いで、絶対に知りたい訳じゃないけど気になるんだよなあと呟く。
見た所、続とは料理をしているようだった。ただ、そこに至る経緯が分からない。
のマンションの立地から見ても、終のように出掛けたついでに寄ったとは考えられない。ゴールデンウィークの時のように始と茉理を2人きりにしたいからという理由も考えられない、終の記憶では長兄は末弟と上野まで美術館だか博物館だかの企画展示を観に行ったはずだった。続が一人暮らしを視野に入れて料理を習っているのだろうかとも考えたが、姉ではなく従姉妹に頭を下げるだろうからと即座に否定する。第一、何故竜堂家の広々とした台所ではなく、マンションの狭いキッチンなのか。
「あー。分かんねえ」
そもそもあれこれ推測して動くのが得意ではない終は濡れた髪を掻き上げながら一つ呻くと気持ちを切り替え、無駄に足掻かず本人達に訊こうと方向転換した。
そうと決まれば話は早いと烏よりも短い行水を終えて、思考も体もさっぱりとした状態で全身に冷気を受けながら数歩先のリビングに顔を出す。明らかに独身者向きではないテーブルには2人分の食事が並び、終の弁当が1つ分置けるだけのスペースが空けられている。
挽肉の餡のかかったオムレツ、豆腐サラダ、人参のグラッセ、冬瓜とオクラのスープ。どれも美味しそうだが横取りしたらが怖いので今日は我慢と頭から腹に言い聞かせた終は氷の入ったグラスを用意すると指定されたスペースに座り、3人が揃ってから声を合わせていただきますと言う。
「なあ、なんで続兄貴が姉貴の家にいるんだ?」
手始めにと京都の有名料亭とコラボしたとテレビで話題になった期間限定の弁当の蓋を開け質問を投げ掛けると、続が何事かを言い淀んでを見た。そして、見られたはというと想定内の質問であったらから、お茶を淹れながら淡々とした表情で味見役として呼び出したと返す。
「なんだよそれ、続兄貴よりも適任がここにいるってのに」
「今回の場合、適任は始よ。でもアイツが面倒な事になるから消去法で続なの」
「でもさあ、おれ量は食うけど質もそこそこ大事にしてるつもりだぜ。それに料理に対する愛と語彙なら続兄貴に絶対負けない!」
「ま、今の返答ならそう返されるでしょうね」
瞬く間に弁当を空にしながら自己PRを始める終の反応まで予想していたのだろう。は軽い溜息を吐いて人参のグラッセを箸で摘むと問答無用とばかりに終の口に突っ込み、はい感想と言いながら右手を差し出した。
「うん、美味い。それにしても乱暴だなあ、もうちょっと優しく食べさせてくれたって、でも、なんか、煮る時間と砂糖の種類変えた? 何時ものより柔らかくて甘味が弱いかな。素材そのものの旨味っていうか、素朴で、なんでだろ。優しくて懐かしい感じがする。姉貴の料理ってこれで白米食っとけって感じの重いおかずが多いけど、偶にらしくないというか、こんな感じの輪郭がふわっとした繊細な料理作るよな」
感じた事を忌憚なく述べた終を見た姉兄は同時に視線を合わせ、片方は苦笑し、片方は肩を竦める。
2人の反応の意味を理解出来ない終は折角真面目に食レポしたのにと不貞腐れるが、口を開く前にの手が湿った髪に伸び、軽く梳いた。その仕草は兎も角、頭を撫でるの表情を見て、終は思わず言葉に詰まる。
「そう。案外、覚えてるものなのかしら」
「……何がだよ」
「お母さんが遺したレシピなの」
静かな短い言葉に終は目を見開き、同時に直前までの会話の意味を全て理解した。
エアコンと扇風機、何処かの家が軒下に吊るしている風鈴の音。蝉と子供の笑い声が部屋の中に満ち、その中で、終は姿勢を正して姉兄に向き直る。
「姉貴、続兄貴。ありがとう」
「ぼくは何もしていませんよ」
それが当然であるかのような態度で続から投げられたは、夏の暑さに頬を赤くしながら視線を逸した。
「なによ、急に真面目くさって。そんなの必要ないでしょう、わたしが自己満足でやっている事なんだからアンタもいつも通りでいいのよ」
高飛車で突き放すような物言いにも関わらず、の表情と声色は凪のような喜びの中に僅かな感傷が見え隠れしている。
おっかなくて理不尽で横暴と年長者の嫌な所を煮詰めたような性格をしていても、先に生まれた者としての行動力と愛情はあるんだよなあと終はの姉らしい一面を再確認して、なんとなく気恥ずかしくなって話題と視線を逸らした。
「……姉貴も弁当食べる?」
「ありがと、気持ちだけ貰っておくわ」
弟が稼いだバイト代を受け取るつもりのないは麦茶を飲み干して、首元を手で仰ぎつつ氷が欲しいと口に出しながら立ち上がる。
こういう時こそ明日は雪の代わりに槍が降るとでも姉兄のどちらかに揶揄して欲しかった終は調子が狂うと内心で不満を述べると、彼の敬虔な信仰心が貧乏神を通過し巡り巡ってヒンドゥー教のアラクシュミーまで届けられたのか、純粋な願いとして受け入れられてしまったようだった。
普段と異なる場所へ座っていたからなのか目と鼻の先にある冷蔵庫へ向かったの足が食事中の続の脚を蹴り飛ばし、返礼として続の肘がの脛へ入る。2度の鈍い音と共にしんみりとしていた空気が崩壊し、数秒の睨み合いを経てヒリつき始めた。
ストッパーの長兄と末弟は不在、2箱目を食べ始めたばかり故に逃げる事も出来ず、逃げられたとしても狭いマンションの室内では場所がない、かといって有言だろうと無言だろうと会話を遮るような真似をすれば矛先が自分へ向く未来は明らか。最悪の消去法で、終は急に味のしなくなった弁当を片手に頭を低くして嵐が過ぎ去るのを切に願ったが、残念ながらこちらについては貧乏神への申請段階で撥ねられたようだ。
「続、少し窮屈そうだから親切なお姉様が削ってあげるわ。脛まで」
「生憎ですが脛程度で解決する程、ぼくの脚は短くありませんので」
「あら、素直なお馬鹿さん。誰が爪先からなんて言ったのかしら」
狭いリビングで180cmを超える男女が悠然と対峙し、夏の暑さとは異なる肌を刺すような陽炎をそれぞれの双肩に背負う。エアコンと扇風機が必死に空気の撹拌を行っているようだが焼け石に水だった。
「屋内で夕立とか勘弁してくれよ」
空気の読める敵が半ダースくらいこの場に突入して状況を有耶無耶にしながら災厄の全てを受け止めて欲しい。精神的な雷雨に見舞われる直前の一室で真昼の青空に捧げられた平和的でささやかな三男坊の願いは残念ながら入道雲に遮られ、神にも仏にも長姉と次兄にも届かなかった。