曖昧トルマリン

graytourmaline

レモンパイが冷める前に

「始兄さんって、なんで姉さんの事は名前で呼ばないの?」
 穏やかで暖かな昼下がり、食事を終えてアイスコーヒーを手に談笑していた年長組が、氷と紅茶とミルクを掻き混ぜていた末弟の何気ない一言で表情を消し、沈黙する。
 疑問を口にした余にしてみれば今まで問わなかったものの内容としては素朴且つ単純で、長兄と長姉は双子として生まれているにも関わらず、始だけがを姉さんと呼び、逆には始を呼び捨てているのだから不思議に思うのは寧ろ当然といってよかった。姉以外の兄弟への呼び方からしても、始はを普通に呼び捨てにしている方が自然に思えるのも、理由の一つに挙げられる。
 食後のちょっとした思い付きから始まった話題提供が不吉な沈黙に変わってしまい、自分が物心付く前にそんなに大した事があったのかしらと上目遣いで年長組を観察していると、同じアイスミルクティーを手にしていた終が何年か前に姉貴に直接訊いたからおれ知ってると手を上げた。
「姉貴達が中学生の時に、どっちが長子か揉めて殴り合いで決めたって」
「そうなの? 始兄さんも、姉さんも、そういう事で揉めたりしなさそうなのに」
「姉貴は割と気にするんじゃないか。始兄貴はそんな事しそうにないけど」
 学生時代の長兄どころか、今現在の四兄弟ですら纏めて相手にしながら同時に拳で沈めそうな姉の、地獄の悪鬼や唯一神の御使いですらなりふり構わず裸足で逃げ出す後ろ姿を終は想像したのだろう。
 竜の姿ならばともかく、人身ならば単独物理攻撃で竜堂家最強の座に着くであろう姉の姿を、余も容易に想像出来た。何せ彼女の性格は竜堂家の過激派に属する続以上に好戦的で、リーチと体格ですら上回っているのだから。
 終は更に軽口を続け、そんな地上最強の姉を天使のあの人と対面させれば何かしらの因果で時空がねじ曲がり、原因の2人が吸い込まれ、結果的に世界が少しだけ静かで平和になるかもしれないと語ったが、直後弟が、最終的に手込めにして時空の狭間から連れて帰って来そうと呟くと縁起でもないと悲鳴を上げた。
「やめろ余! 時空の狭間から帰って来る所まで含めて姉貴は全部やりそうだから!」
「先に言い出したのは終兄さんなのに」
「頭が残念そうな単語がこっちにまで聞こえて来たわね。愚弟共はお姉様の事を何だと思っているのかしら?」
 半数が騒ぎ立て、もう半数が沈黙している場に焼き上がったばかりのレモンパイを乗せたトレイを手にやって来たは呆れたように肩を竦めた。
「ま、興味が湧かないから説明は要らないわ。じゃあね、わたし帰るから後片付けくらいは自分達でやりなさいな。夕飯のおかずは冷蔵庫の中だから温め直しなさい、終、つまみ食いしたら殺すわよ」
「姉さん、待って。あのね」
「余は小さいから声が届かなかったのかしら。わたしは、今から、家に、帰るの」
「始兄さんが姉さんを名前で呼ばない理由ってなあに?」
 まだ帰らせないとばかりにの腰に腕を回すようにしてしがみつき、忠告を無視をしてまで質問をぶつける余に、終は勇者の資質を見出した。他の弟達と比較して長姉が末弟には強く出られない事を考慮した上で、それでもだ。
「そこで黙っている当人にでも訊きなさいな」
 理由そのものは知っているのか非常に苦い顔をして双子の弟を睨め付けるにも動じず、余は姉さんに教えて欲しいと引き下がらない。悪くなって行く空気の中で罪のないレモンパイを口にした終は、一言二言で説明出来るに決まっているのだから引き伸ばしは勘弁して欲しいと兄達を見る。しかし、特に始が触れて欲しくない話題だったようで救援要請は打診の段階で諦めざるを得なかった。
 その間も余はを離そうとせず、遂に根負けしたのか美しい薔薇色の唇から溜息が零れ落ちる。自分だったら抱き着く前に鳩尾に膝を入れられ今頃フローリングの上で呻いていただろうなと、終は姉からの自己評価を客観的に下した。
「アンタ達に多数決取ったのよ、わたしと始と、どっちが年長者かってね。余は小さかったから覚えていないでしょうけど」
「……終兄さんが話してくれた理由と違う」
「あらそうなの。終は一体何を言ってくれたのかしら?」
「おれ悪くないだろ!?」
 圧を含んだ口調で問い掛けられるも流石にお門違いだと即刻抗議に入る。
 逆ギレだ横暴だ八つ当たりだ嘘吐く姉貴が悪いのだと畳み掛けるように叫び主張する三男坊に理があり、自身の方が理不尽極まる不条理である事はも十分判っていたようで、バツが悪そうに髪を掻き上げ双子の弟を見る。そして、丁度その隣に居たすぐ下の弟が口を開いた。
「嘘を吐くのは構いませんが、せめて自分で覚えていられる範囲で済ませるべきだと思いますよ。姉さん」
「あら、耳が痛くなるようなとっても素敵な正論ね。感謝の印にお姉様が出来たてのレモンパイを食べさせてあげようかしら」
「そこまでしていただかなくても結構です。それよりも今日は化粧の出来映えが今一つのようなので、是非化粧直しを手伝わせてくれませんか」
「女心を理解してくれる姉思いの弟に育ってくれて嬉しいわ。でも色彩感覚が少し残念ね、私の欲しい色は赤でも青でも紫でもなくライトグリーンなの。今の続に必要な色はクリームイエローのワンポイントかしら」
「余、逃げるぞ!」
 オーブンから取り出されたばかりのパイが乗った皿の底面を持ち今にも振りかぶる寸前のと、それより速く実姉の顔面に右の拳を打ち込む為に構えを取った続を見て、終は反復横飛びの要領でに抱き着いていた余を剥がして抱え壁際まで逃亡する。
 終はほんの少しだけ、いや、その後に訪れる魔王同士の死闘による巻き添えさえ考えなければ非常に、パイ投げをモロに食らう次兄と、音速を超えそうな拳を喰らう長姉のクロスカウンターを見てみたいとは思ったが、そんな失言は心の奥底に閉じ込めて絶対に口には出さない。言葉どころか少しでも態度に出ようものなら間違いなく両者の腕が目標を変え、同時に終目掛けて振り下ろされるからだ。
 この2人、姉弟仲は全兄弟中最悪にも関わらず性質自体は同方向なので馬は合わないが息は合う、同族嫌悪の四字熟語を知る前から、三男坊はかなり正確な意味を身を以て教えられていた。
 けれども、長じてからはその理屈を逆に捉え始め、バレたらタダでは済まないが、バレなければ何を考えたっていいとも終は竜堂家の一員らしい学習をしている。
 姉が速いか、兄が先を行くか、自分と弟の安全を確保しつつ達人同士の一騎打ちを観戦者気分で眺めていると、それまで沈黙を保っていた始がふいに言葉を発した。
「姉さん、腹を括るべきだろう」
「首括って腹掻っ捌きなさいよ、アンタが。大体、最初からわたしの存在を明かしていたらあんな不愉快な事態にはならなかったのよ?」
「何があったの?」
 好奇心旺盛な末弟の質問が双子の長子の会話に挟み込まれ、しばしの沈黙が流れるが、やがて観念したように特大の溜息を吐いても皿を元の場所に置く。興が削がれたようで、姉さんも余君にだけは特別甘いんですからと愚痴をこぼしながら続も構えを解き、無事生き延びたレモンパイを確保して片方を兄に手渡した。
「全く、今思い出しても腹立たしい。何があったのか、ですって? 始がわたしを名前で呼んでいたせいで、恋人と勘違いされたのよ」
「姉さんが?」
「ええ」
「始兄さんの?」
「そうよ」
「どうして?」
 二卵性ではあるが、兄と姉の容姿や背格好は間違いなく血縁者と判る程度には似ているのにと顔に出された疑問は、先入観とは恐ろしいものなのだと始の口から回答を得た。余としてはそういうものかしらと腑に落ちない所ではあったが、立ち振る舞いは烈女でも口さえ閉じていれば絶世の美少女でしたからねと続が揶揄したので恋人同士に間違われたのは事実のようだ。
 続兄貴が言うなよなあという終の率直な感想兼ボヤキは、幸い余の耳にしか入らなかったらしい。次兄の右の拳が復活する様子は見受けられず、パイを崩したばかりのフォークが握られている。
 冷えたコーヒーと共に苦い思い出を飲み下したのか、始は先に問われる質問を見越し、当時の状況を手短に纏めた。
「2人で祖母さんの還暦祝いのプレゼントを買いに行った姿を、おれのクラスメートに見られていたんだ」
「その人、よく無事だったね」
「女子生徒だったからな。姉だと訂正する為に学校中を駆けずり回ったよ」
「別に女子生徒だから許した訳じゃないわよ。そもそも、わたしの存在にあらかじめ触れておけば防げた事だって言ってるの」
 激情型の続をして烈女と称されたが不機嫌そうに鼻を鳴らし、苦笑ではなく沈痛な面持ちで始から説明され、比喩ではなく駆けずり回ったのだろうと余も察した。恐らく、姉が駆けずり回らせた、という所まで。
 は祖父が創立した共和学院への進学を断り、中高は近所の公立校、大学は私立の医療系へと通っていた事もあり、共和学院内で竜堂家は今でも四兄弟と思われがちだか、当時からそうだったらしいと年少組は顔を見合せた。も弟全員を気安く呼び捨ててはいるが、彼女の場合は弟の存在を周囲に明かしているので勘違いされる事はないのだろう。
 それでも、一緒に出掛けなければよかったとは思っていない姉兄に末弟が微笑むと、というかそれは些事よと長姉が殺気立ちながら腕を組んだ。当然、浮かべていた微笑など暴風の前の塵の如く吹き飛ぶ。
「それが原因じゃないの?」
「不愉快には違いないわ、でも、たかがその程度の噂話でわたしの存在理由が揺らぐと思って? この朴念仁の恋人に間違われようがどうでもいいの。わたしは、ね」
 けれど、この世に1人だけ、どうでもよくない少女が居るだろうと言外に告げられると、年少組の視線が一斉に長兄へ注がれた。それに対して罪を自覚している故に何も言えないでいる始と、こればかりはフォロー出来ないと視線を逸らした続に、思わず終と余はそれは駄目だと声を上げる。
「ええ、そうね。駄目ね。当時小学生だった茉理の将来の夢が始お兄ちゃんのお嫁さんだと知っての狼藉ね」
「……家来と宣言されただけだろう」
「何で反論してくるのよ、黙って言葉の先を読み解きなさい、この愚か者。誰が言ったかは重要な要素よ。仮に私がアンタに向かって宣言したら下僕以上の意味はないわ、でも茉理が同じだって言えるの?」
 同じであるはずがない、と4人は各々の心の内で思い、表情にまでは出したものの、口には出さなかった。
 それに気付いてか、は呆れたように視線を逸し、言葉を続けた。
「ただ幸い、あの子の耳に入る前に噂を根絶させたから不問に付したけど」
 従姉や保護者や裁判官というよりは女帝の目で睥睨したは、今後、二度と同じ過ちが起きないよう、始がを姉と呼ぶよう迫り有無を言わせず了承させたと余が発端の疑問を締め括る。
 末弟当人はそれで満足したようだったが、姉貴が妹案はなかったんだと終が感想を漏らすと、は馬鹿馬鹿しいと、きっちり8歳分離れた弟の意見を鼻で笑い飛ばした。
「生まれた時から長男根性が染み付いた前時代的な堅物に妹扱いされるなんて願い下げよ。アンタ達と一纏めにされて始の世話になんかなりたくないわ」
「その判断に関しては、姉さんに感謝していますよ。貴女のような妹が存在したら兄さんの心労は今の倍では済みませんから」
「あら、随分慎ましい評価をしてくれるじゃない。倍で済まない程度の表現で収まると思っている辺り、続も未熟な緋鯉ちゃんね。始を長子にしたら三十路どころか二十歳手前で総白髪に出来た自信があるわよ」
「姉さん、もう帰ってくれないか」
「若ハゲの方がよかったかしら? ま、いいわ。じゃあね、今度こそ帰らせて貰うから」
 今正にそのストレスに晒されている最中の始からの要望と、元々帰宅する所を呼び止められただけのの考えが一致し、竜堂家長姉は弟達への挨拶もそこそこに実家を後にする。
 聞き慣れたエンジン音が遠ざかった事を確認した後、どうでもいい疑問が解消された年少組は既に別の話題に移りながらアイスコーヒーを飲んでいる年長組から離れ、今この場に居ない姉を話しの種にまだ温かいレモンパイを突っついた。
「姉貴もあれで、考えて姉貴やってるんだなあ」
「ねえ、終兄さん。ぼく達も弟らしく振舞ってみるべきなのかな」
「冗談。姉貴も兄貴達も立場を受け入れてるだけで嫌々その役割を演じてる訳じゃないんだ、おれはやりたい事もやれずに弟らしく振舞う余なんて絶対に嫌だからな」
「ぼくも、そんな終兄さん嫌だなあ」
「だろ? だからおれ達は今まで通り、普通に生きていればいいんだよ。さしあたって、温かいうちにパイを全部食べ切っちまおう。でないと姉貴にもパイにも悪いからな」
 思わぬ疑問から姉の一面を垣間見た弟達は、互いに笑い合うとどちらともなくフォークを手に取る。立ち昇った湯気からは、甘いレモンの香りがした。