水槽
四角い、何の変哲もないその水槽は小さな熱帯魚でも泳いでいそうな環境にも関わらず、魚らしき物体が一匹も見当たらない。岩陰に隠れているのかと覗き込んでみても、何かいる様子もない。けれど、水の中に酸素を入れるための装置は動いている。明らかにその中に棲んでいるはずの何かに対してのものだった。
一体どういう事なのか、空の水槽を眺めるのが恋人の趣味なのだろうか。あの男は些か変人の気があるのでそうなのかもしれない。そんな男と付き合っている自分も大概であるが。
「食うなよ」
「何が」
「おれの大事なタワラ達だ」
何時の間にかシャワーを浴び終えていたらしいが始の背後から声を掛ける。体の至る所に付いているキスマークを恥ずかしげも無く晒し、白いタオルを頭に被せたまま大きな欠伸をしたその男は、水槽の側面を指しながらそう言った。
タワラ、彼がそう呼ぶ物体がこの水槽には複数入っているらしい。一体それはどういった物か、尋ねようとして、その前にもう一度水槽内をよくよく見ると岩とは違う、赤灰色と緑褐色をした物体が複数存在している事に気付く。
一体何なのか確認する必要はなかった、つまり、彼が言うように『タワラ』なのだ。
「食用のナマコ飼ってる奴なんて初めて見たぞ」
「問屋で袋詰めで売ってたんだよ。生きてたし」
だからって飼うなよ、そう言ってみて返って来た言葉は「そんなのはおれの自由だ」だった。最初は金魚を飼いたかったらしいのだが、冬場で売っていなかったので代わりにナマコを買ったらしい。その代替はおかしくないのかと問いたくなったが、先程も言われたとおりそんなのはの自由なのだろう。
「しかし、ナマコ売ってる問屋に金魚があるのか?」
「ある。毎年夏場に袋詰めで売ってる」
でも黒の出目金がいなかったんだ。年明けに一度用があって行ったらナマコが同じ場所に居たんだ。だから買ったと説明したの言葉を背にもう一度水槽の中の物体を眺める。
これを初めて食べようと思った人間は相当勇気が要ったに違いない容貌をしていた。人類とはつくづく偉大だ。
「なあ、始。そいつら、中々男前な面してるだろ」
唐突に掛けられたその台詞に、始の時間が止まる。斑点の有無や色の違いは見分けられるが全部が全部同じような容姿をした生き物を、彼は男前とのたまった。流石にそれはないだろうと数秒悩んで、しかしは変人だと思考の横槍が入り、更にそれを否定する。しかし変人という単語は中々頭を離れてはくれなかった。
自分はナマコを本気で男前と思っている人間と付き合っているのか、始がそう思い始めた頃、水槽越しに恋人の顔が映る。にやにやと口端を上げた、意地の悪い表情だった。
なんて事はない、始はからかわれただけだった。