雨中にふれる
そうしては湿気った空気を吸い込み、下校時刻はまだ遠いと告げる壁の時計を億劫な面持ちで眺めてから、もうしばらくは自分の席から立ち上がる必要がない事に安堵した。
主な原因は2つ。1つは、窓の外の景色が完全に見えなくなる程の土砂降りの風雨に襲われている事。もう1つは。
「、どうしたの?」
「あー……まあ、ちょっと色々。余こそ、どうしたんだよ」
「委員会が長引いて」
「マジか。それなかったら晴れてる時に帰れたし、超悲惨じゃん」
教室の電気が点いていたから態々やって来たのだろうか、それとも忘れ物でもしたのだろうか、どちらにせよ真面目なクラスメートだと、机に突っ伏すようにして考えていたの目の前に、余が座る。頭上からは再度、どうしたのと問いかけが降って来た。
仲のいい友達ですら適当に理由を付けて自己完結させ、ここまで親身になってくれなかった。別に何があったのか言うつもりなどなかったから有り難かったけれど、同情を得られず寂しくもある。
余とは名字ではなく名前で呼びあうが特別親しい訳ではない、その程度の仲なのに、こういう良い奴だからこそ皆に慕われるんだよなとは心の中で同い年の少年を称賛した。
「ちょっと、色々。別に体調不良とかじゃないから、うん、もうちょっとしたら帰る」
そんな余には申し訳ないが、帰宅したくないもう片方の原因を言葉にする事も出来ず、思い切り濁してから雨が小振りになるといいなと話を逸らす。
寧ろ、雨が小振りになるのを待っていると切り替えした方が無難だったと軽く悔いていると、すぐにそれが大きな後悔へと変わった。
「失恋したんだね」
何でそんなピンポイントな所を疑問形じゃなく確信を持って言えるの余は、と思考が声帯を震わせる前に、慰めるように頭を撫でられる。
そして、言動の穏やかさを保ったまま、疑問の答えも差し出された。
「ぼくも、失恋した事があるから」
「は? 嘘だろ、余はエグいくらいモテるじゃん」
「恋人がいたんだ。好きになっちゃった人に」
思わず顔を上げて、あの竜堂余を袖にするような人間がこの世に存在するのかと表情で追加すると、割と納得行く回答を返される。確かに、余というクラスメートはから見て、略奪愛という手段は好む好まない以前に選択肢にすら挙げない性格をしていた。
恋愛や相手に対して誠実な言葉や態度に、は頭を抱えるようにして俯く。捨てられた自分とは大違いだと、誰にも聞かせるつもりのなかった言葉が音として飛び出してしまい、ついでに涙まで零れた。
「置いていかれちゃったんだね」
を傷付けない為なのか微妙にニュアンスを変えて訊き、愚痴くらいなら聞くと態度で示す余の手が目尻に伸びて、涙を拭う。
流れに任せて吐き出してしまおうか、だって、余は他のクラスメート達と違い口は固い。偏見だってない。話の種にと噂をバラ撒いたり、脅迫に使うなんて事は絶対にしないと言い切れる。今ここで、余を逃してしまえば、きっとこの気持は誰にも吐き出せないまま胸の中で腐ってしまう。
脳内は大方、余の意見に賛同の意を示した。けれど、深刻振りたくはない。
袖口で目から溢れ出た水分を飛ばし、元々別れる前提の付き合いだったと吹っ切れたような明るい声で笑ってみせる。
「そうなの?」
「だってあいつガチペドだって言ってたから寧ろ長く持った方なんだよ、第二次性徴終わったら別れるって前から宣言されてた」
「がちぺどって」
「ガチのペドフィリアって事、小学生くらいの子供が大好きな大人。お兄さん達の前では言わない方がいい単語だな、多分物理で教育的指導されるから。おれが」
余の兄がどのような人間なのかは、中等科から共和学院に来たでも知っているつもりだった。兄の終のやらかしは去年1年間だけでも幾度も目撃した経験があり、その終よりもヤバいと噂の続は今現在共和学院の大学に在籍している。因みに長男で高等科の教師をしている始に関してはその手の話を聞いた事がないが、余の性格を見るに真面目な人間なのだろうと予想出来た。
そんな兄達の前で、末の弟の口からガチペドなどという言葉が飛び出した日には何が起こるか。余と仲良くじゃれ合っている終の姿を思い出したは、その単語と共にペドフィリアと恋仲だった事も秘密にして欲しいと約束を取り付ける。そんな約束などしなくても余が口外するはずがないとは判っているけれど、それでもだった。
「じゃあ、は」
「違う違う。そっちの理由だったら最初からそういう条件だったから納得してたし、諦められる。でも、そうじゃなかった」
別れを切り出されるまでは良かった。いずれ好きではなくなる事を知らされていたは、十分覚悟をしていたからだ。
けれど続けて、元恋人は言ったのだ。今度自分は結婚する、親族の中で1人だけを式に呼ばないとなると怪しまれるから何でもない顔をして出ろ、と。そして元恋人が結婚する相手は、彼の同僚で年上の、とても綺麗な女性だった。
「それで、先週末結婚式があってさ。何時間もかけて、真正面から、お前とは遊びだったんだよって突き付けられた感じ? さっきみっともなく泣いたのもあれだな、あの人と別れて悲しいってよりも、騙されたおれ可哀想みたいな?」
余に愚痴を聞いて貰い、心の整理が終わり胸の内が空くと涙も自ずと止まっている。失恋が悲しかったのではなく、今まで本気で恋していた自分を馬鹿にされたようで悔しかったのだと気付き、満足気な表情を浮かべる。
勿論、それで解散という訳にはいかない。
「ありがと、余。愚痴聞いてくれて、おれもう大丈夫だ」
「良かった」
「お礼、なんて言い方は良くないけど、余も愚痴りたい事があったら聞くぞ。アドバイスとかは出来ないと思うけど」
「本当? じゃあ、聞いて欲しいな」
「即答かよ。さては自分の愚痴聞いて貰う為におれに話振ったな?」
曖昧な笑いで、それでも肯定する余を見たは、さあどんと来いと両腕を広げた。その勢いとは裏腹に、まるで内緒話でもするような静けさで余が額を寄せて、囁いた。
「、ぼくの恋人になって」
その静けさが、時間を止める。
余から放たれ言葉を理解出来ず、もう一度、と聞き返そうとする前に、言葉はキスで塞がれた。舌を入れられる事は流石になかったが、その分、唇の感触や形や熱を確かめるように長い時間をかけられる。
息が上がる事はない、けれども、触れ合うだけと呼ぶには濃密で脳の端から融けていくようなキスを終え、余の手がの頬を擦った。
「ずっと好きだった。でもぼく達は男同士で、には恋人が居るって知ってたから、黙ってた。もっと親しい友達になりたかったけど、辛くなるだけだから、ただのクラスメートでいようって我慢してた」
「あ、まる」
ただの、クラスメートだったはずの少年からの突然の告白に、は上擦った声で自分の気持ちに相応しい言葉を探す。
「でも、君の隣からその人はいなくなった。男同士でも嫌がらずに、受け入れてくれるって判った。ねえ、、ぼくとのキス、気持ち悪かった?」
「え、や。気持ち、良かった、けど。おれ、気付かなくて、ま、待った!」
「気付かなくてよかったんだよ、ぼくは隠してたんだから。なのに、薄情だって自分を責めるつもりなの? 可愛いね、」
「黙って待ってくれよ! 少しでいいから!」
雨の音さえ打ち消しそうな自らの鼓動と、鏡を覗かなくても判るくらい熱を帯びた頬のまま、は余の両肩を掴んで頭振った。ほんの僅かに稼いだ時間の中で、このままなし崩しにキスされるのはよくないと霞がかっていた思考を晴らし、必死に頭の中の辞書とも呼べない単語帳をひっくり返す。
心臓に合わせて脈打つ両手首を、そっと触れるように余が掴み、信じられないような力でゆっくりと左右に広げる。自力で作り出したのではなく余に与えられた制限時間だと思い知らされ息を呑み、震える喉と乾いた唇、そして融けた声で返事を紡いだ。
「おれを、余の恋人にしてください」
同意よりも劣情を抱かせる、自らを差し出すような返答に、一瞬、呆然とした表情の余が目に入った気がしたがすぐにそれも判らなくなる。
雨ではない水音が耳まで届き、やがてそこに2人分の吐息が混ざり始める。口の中に余の熱を感じながら、は全身の力を抜き、ゆっくりと目を閉じた。