竜の罪跡
ただ、ああだからそうだったのか、程度に思っただけだ。
真っ白な思考に、おれを拉致した目の前の男が刷り込むように囁く。ご兄弟を殺した怪物を許せるかといった内容だったが、前述した通り、その時点でのおれは別段彼にそういった気を持つことはなかった。
薄い、大きな画面の中で美しく踊る黒い竜。一体何処から撮っていたのか判らないが、富士演習場で起こった無意味な虐殺がおれだけの為に効果音付きで上演されている。
激しい雷の音が鼓膜を震わせ、誰が何を言っているのかすら聞き取れない。カメラが横転し、泥に塗れ、また拾い上げられた。少しだけ視界が高くなった気がする、もしかしたら先程の撮影者は死んだのかもしれないとぼんやり思った。
一筋の激しい光が黒竜を撃ち、画面が暗転。無機質な高い音が数秒続き、ふつりと映像が戻る。空は未だ曇天だったがあの激しさはもうない、泥の中に老人の死体があって、その傍らで後輩とその弟達が微かに笑いながら何事か話合っていた。
裸のまま眠っている元恋人、あの黒い竜に自衛隊服が着せられる。服を剥ぎ取られた死体の顔に見覚えがあった。見覚えなんて、そんな軽い言葉で足りるはずがない。
「兄さん?」
動作の止まった画面に近付くため椅子から立ち上がり、温度のない表面に触れてやっとの事で呟くと、隣の男が大袈裟な身振りであれが貴方のお兄さんでしたかと嘆く素振りを見せた。その態とらしい仕草や声に、凪いでいた心が狂れ始める。
好き勝手演説する、よく見れば日本語を流暢に操る白人だったその男は、何故かおれの指に触れ右手に拳銃を一つ握らせた。思ったよりも重い、オートマチックの銃。
その重さがきっかけで、非日常の連続から、ふと我に返る。拉致されたとはいえ、移動は全て車だった。その車にだって何時間も乗っていた訳ではない、ならばここは基本的な一般人は銃を持たない日本国内だ。
今更だが、この男は何だ。
「さあ、待ちに待ったお客様がいらっしゃいましたよ」
芝居がかった、大きな声と手振りで男が告げる。同時に、薄暗かった部屋のドアが破壊され、こちら側に吹き飛んできた。四角く切り取られた光の中に、元恋人の影を見つける。久しぶりに顔を合わせる事ができたのに、逆光で表情は判断できない。
逃げないよう抱き締めて顔を見たかったのに、手の中の銃が邪魔だった。隣の男が何か喚く、殺せと言っているようだったが動くのも億劫だ。そうこうしている内に髪を掴まれて無理矢理立たされると、頸動脈に冷たい物が当たった。鋭い金属片、ナイフだろうか。
おれを盾に男は更に喚く。もしかしたら元恋人や後輩、その兄弟達を口汚く罵っているのかもしれないが、言葉が脳まで入って来なかった。
「」
名前を呼ばれた気がして思考を現実の時間軸へ戻す。いつの間にか部屋の中は明るくなっていて、元恋人の表情がよく見えるようになっていた。今にも泣きそうな顔をしている、最後に見た顔と同じような表情。それが、唐突に変化する。
首筋が少し痛んだかと思ったが、その痛みを脳が受け取る頃にはおれは解放されていた。視界の隅で白人男を締めあげているのは滅多な事では怒らない後輩で、元恋人は震える体でおれを抱き締めていた。
「、ごめんなさい。許して貰えないだろうけど、でも……」
何が起きたのかよく判っていないおれの胸を、元恋人の涙が濡らす。涙に濡れた瞳がそのまま溶けてしまいそうで、左手で拭うとまた謝罪された。意味も判らなかった謝罪が続いたあの日から虚ろだった時間が、やっとここで繋がった。意識と感情が戻る。
余の黒い瞳が画面を見る。おれと兄はよく似ていて、一目で兄弟だと判る外見だった。そのおれによく似た兄の水死体から剥いだ服を知らず着ていた事に、余は少なからずショックを受けたのだろう。この少年の精神は元々繊細なのだし、仮に相当図太い神経の持ち主だとしてもこの事実は堪える。
濡れた左手の指を拭うこと無く胸元の柔らかい髪を撫でた。布に殺された嗚咽が止まらない。何と声を掛けようか迷って、馬鹿みたいに余の名前を呼んでみた。
ただただ泣いている余に触れようと、今度は右手を上げようとして違和感。握らされた銃は未だその手の中に放置されている。引き金をひけば、いつでも弾が出る状態だった。
思考が徐々に繋がり、自分がすべき事が見えてくる。
男はこれで余を、あの竜に変ずる元恋人を殺せと喚いていた気がするが、少し考えれば不可能と判るだろう。こんな少ない火薬と小さな弾で、どうやって竜殺しをしろというのか。こんな物を向けた所で、硬い鱗が僅かに傷付く程度だろう。
男は、間違っていた。
間違っていたのだ。
「あまる」
腕の中で泣く子供の額に口付けをして、視線をおれに固定させる。優し気な笑みを浮かべてやれば、また謝罪の言葉を吐き出した。
「なかないで」
「でも、ぼくが……!」
「あまるに、ないてほしくない」
また左手で涙を拭う。潤んだ黒の瞳に映ったおれの姿は、全てを許すような慈母の、柔らかな微笑みを浮かべているように見えた。
何度も口付けをして、少しでも気が緩むのを待つ。今の、泣いたままの余には伝えられない言葉があった。
「……」
「うん」
「は、どうしてこんなに優しくしてくれるの? ぼくは、ぼくが、お兄さんを」
「そのさきは、いわないで」
左手の人差し指で、幼い唇に触れる。当事者である彼にその先は言って欲しくなかったけれど、黙らなかった。仕方無く、右手を上げる。
「なんで、お兄さんを殺したぼくに優しくしてくれるの? 許してくれるの?」
「あまる。もちろんだよ」
「、ぼくは」
「もちろん、ゆるすものか」
パン、と右耳の上で乾いた音と衝撃。左肩や左腕に、生暖かい血液や破壊された脳の欠片が垂れる。右手の人差指は拳銃の引き金をひいたまま動かない。銃口を向けた先は、自分自身の右側頭部。
目の前の余の、微かな希望に輝いていた笑顔が凍り、崩壊。右の鼓膜に怒号と叫び声が突き刺さる。重力に従って落ちようとする体を止める細い腕、余の腕。
目を閉じようとしている訳でもないのに視界が暗くなる。痛い。死ぬほど痛いし、もうすぐ死ぬ。それでも、これだけは言わなければならない。愛しかった余に贈る、彼の心に刻むおれの最期の言葉。
「うらむぞばけもの」
男は間違っていたのだ。
呪いの言葉を吐き終わったおれの体が崩れる。もうなにも聞こえない、見えない、言えない。体が冷える、意識が消える、おれが終わる。
暗転。