曖昧トルマリン

graytourmaline

竜の足跡

 初めて恋人を家に迎えた日、別れて欲しいと頼まれた。後輩の弟で、一回り年齢の離れた少年に唐突にそう告げられたのだ。
 理由は判らない。来てすぐの時はとても嬉しそうにしていた。一人暮らしをし始めて結構経っているのに、繊細さの欠片もない手料理を振舞って、それでも料理の出来ない恋人は美味しいと言ってくれた。
 洗い物をしている途中で、今度一緒に遊園地でも行こうかという話になって、恋人はこの夏休み兄弟と一緒に大型遊園地に遊びに行く予定なんだと嬉しそうに話していた。相変わらず兄弟仲がいいなと言うと、恋人は自分にも兄が居たはずだと無邪気に問いかけたのだ。
 それから、だったかもしれない。
 兄はついこの間死んだと告げたら、酷くショックを受けていた。自分自身、まだその事から立ち直れていなかったけれど、兄の職業柄ある程度は覚悟していたからと、そう告げる。
「お兄さんの……お仕事は」
「自衛隊員だよ。お互い離れた場所に住んでいるから全然顔も会わせられなくて、仕事の内容も喋らなかったから、階級とか、全然判らないけど」
 自分の職業に、誇りを持っていた。その兄が、富士の演習場で死んだ。
 原因は、局地的な悪天候だったらしくて、他の隊員も数え切れないくらい死んだらしい。それなのに、大きなニュースにもならなかったから、世間でも隊員たちの死はあまり知られていなかった。
 どういった表情で言えばいいのか判らなくて、感情が抜け落ちた笑いを浮かべながら言うと、恋人は顔色を真っ青にして震えていた。悪い事を言ってしまった、幾ら自分の心が弱っていたからと言ってあまり詳しく言う必要なんてない事だった。
「ココアでも淹れようか。少し待ってて」
 そうしてキッチンに逃げようとした服の裾を、恋人の手が掴んで遮る。何も言わずに立ち上がると、血の気の引いた顔で玄関まで行こうとしていて、一体どうしたのかと尋ねれば、唐突に、別れようと言われた。
 どうして、そう尋ねる前に恋人はぼろぼろと涙を零していて、お願いです別れて下さいとしゃくり上げる。一体自分の何がいけなかったのか見当が付かない。何故この少年が泣くのかが理解できなかった。ひとまず彼を落ち着かせて、今日は帰った方がいいと車で家まで送っていった。車内で何度も謝罪を聞いたけれど、この少年が謝る理由が判らない以上どうしようもない。
 兄の話がいけなかったのだろうか、それとももっと別の何かだろうか。
 悶々と考えながら車を家の前までつけると、あらかじめ連絡をつけていた後輩が直に出てきて何事か囁きながら恋人を抱えていった。何も言える雰囲気ではなくて、恋人は最後まで謝罪の言葉を口にしている。
 それからは、よく覚えていない。家に帰って、シャワーを浴びて、濡れた頭のまま携帯を確認すると、その恋人からメールが入っていた。一方的な別れのメールだった。問いただしたくて電話をかけると、恋人の兄である後輩が出て、メールの通りだと謝罪交じりに言われて一方的に切られた。彼らの自宅にかけようにも、恋人と自分を繋ぐ手段は携帯しかない事に気付き、悔しさをぶつける様に壁を殴る。
 繋がらない携帯に向かって怒鳴り、膝を抱えて座り込んだ。本気で愛している少年から突きつけられた離別に、ただ唇を噛み締めて嗚咽を殺すしか出来なかった。