翠鳥
今日は始業式で、まだどこの部活も活動を行っていないはずなのに、そんな微かに疑問を抱いた余はそのまま帰ろうとはせず下駄箱とは反対の方向に早足で歩き出した。
窓の外に咲き誇る桜を横目で見ながら音を辿り音楽室の前に立つ。鍵の開いているドアの隙間から中を覗いて見るとグランドピアノの前に座る大柄な男子生徒がいた。
男性特有の長い指が鍵盤の上でゆるりと滑り、曲に合わせて上体がゆらゆら揺れている。まどろみの様な音は奏者の表情も眠りに誘うかのように緩ませていた。
声をかけようか迷っていると、余の気配に気付いたのか、その生徒は手を止めてドアの方を確認し今までの眠たげな表情を笑顔で覆い余の名を呼んだ。
「こんにちは。先輩」
「よお、余。終業式振り」
ひょい、と上半身をずらしてもう一度余の姿を確認すると、は人懐っこい笑みを浮かべてこっちに来いと手招きをする。
「やっぱり先輩が弾いてたんですか」
「おれ以外誰がいるよ。それと呼び方と敬語、でいいっていつも言ってるだろ」
「先輩は先輩ですから」
「お硬いねえ」
次男の続とそう変わらない身長に、スポーツ選手のようなしっかりした体躯。髪を短く刈るように切った男臭い顔立ちもあって、いかにも運動部ですといった印象を受けさせるだったが、自分の足に躓くような極度の運動音痴で手芸部員だったりする事は中等科の中でも有名であった。
「手先が器用なのは知ってましたけど、ピアノも弾けたんですね」
「裁縫みたいに自慢できる程上手くはないけどな」
「そんなことないですよ。ピアノ、長いんですか?」
「一応幼稚園児の頃からやってっけど……どーだろな、まだ十代半ばなのに長いって言えるのか?」
余の言葉には大型犬のような笑い方をしながら返して、大きな手の平で余のふわふわした髪を撫でる。
三人の兄の手とはどれとも違う優しい感触に余も笑い、もう一度弾いてくれるよう頼んでみた。はすぐにそれを了承して単調にも聞こえるその曲を弾く。
「なんだか、眠たくなる曲ですよね」
「別の曲にするか?」
「いいえ」
今にも眠ってしまいそうな余を見てが苦笑したままピアノを弾く。大して長い曲でもないそれは、やがてゆっくりと手が止められる。
「余。お前この後なんか予定あるか」
「いいえ?」
「よし、おれの懐が暖かい時に出会った余は運がいい。進級祝いにファミレスで奢ってやろう、大食漢の先輩は高等科に行っちまったからな」
ピアノから立ち上げり、ウインクしてみせたに余は声をあげて笑い「それじゃあ遠慮なくご馳走になります」と頭を下げた。
「でも先輩と会えたのは別に運がいいからじゃないですよ」
「そうかい?」
「帰り際にこの曲が聞こえて、きっと先輩が弾いてるんだろうなって思って」
余の言葉を真面目に受け取っているのかいないのか、多分いないであろうは、鞄を引っさげて欠伸交じりに言い切った。
「なるほど、大した超能力者様だ」
「あ、バレちゃいましたか。ぼくが超能力者だって事」
「そういうのは、おれ限定だと嬉しいんだけどね」
「前向きに検討しておきます」
「そうしてくれ」
互いの台詞に笑い合い、二人の少年は音楽室を後にした。