曖昧トルマリン

graytourmaline

彼は繋いだ手を引いた

 時計の長針と短針が円盤の頂点で重なり合う時間、真昼の空から降り注ぐ光が窓を通して事務所へ暖かさを運び入れる。重厚なデスクの特等席に足を投げ出して座り込み、赤いコートに柔らかな熱を含ませながら銀糸の髪を眠気に任せるまま輝かせていたダンテは平和でなによりだと欠伸を一つ漏らした。
 血の気の多い共同経営者や従業員達はそれぞれ別の依頼を受けて外出中であり、留守番と共に細々とした事務仕事を押し付けられた彼は馬耳東風とばかりに書類の山を視界と記憶の中から綺麗さっぱり消去して惰眠を貪る態勢に入る。労働意欲に欠ける自分にデスクワークを頼む連中が悪いのだとしっかり責任転嫁を行ってから雑誌を顔に乗せ、しかしすぐにそれを取り除いた。
 外界からゆっくりと近付いてくる気配に青い瞳が重厚な扉に向けられる。害意や敵意や悪意は感じない。第六感を刺激する虫の知らせに与する依頼人、悪魔、同業のおっかない女性達の類ではない事に首を傾げ、頬や首筋を指先で撫でられたような擽ったさにどうしたものかと後頭部を掻いた。
 立ち上がって正体を確かめるべきかと一瞬だけ考え、どうせすぐに扉が開かれるのだから必要ないだろうと耳元で小人が囁く。普段彼が狩っている悪魔とは違う類の悪魔の誘惑に躊躇いなく乗り商売道具を定位置のまま放置していると、程なくしてノックもされないまま扉が開いた。
 代わり映えしないスラムの街並みと青空を背景に現れたのは、体格より随分余裕のある赤いパーカーを羽織りフードを目深に被った細身の男で、ダンテも見知った半魔だった。
か、驚かせるな」
「そんなビックリするようなサプライズしたか? 事務所来ただけだろ」
「いや、そうなんだが……ああ、そうか。そうだな」
 デスクに乗せていた足を下ろし、筋肉に覆われた太い腕が分厚い胸板の前で組まれる。歯切れの悪い言葉で誤魔化し、ある種の感情を含ませた視線の先には、寝惚けてんなよと緩く笑う親友の姿が映った。
 本人に自覚は全くないようだが、という半魔は死人や無機物と区別が付かないくらい生気がない。
 度々が事務所に訪問してもすぐに対応出来なかったのはダンテの無精に依る所も大いにあるが、それ以上にの気配があまりに薄くテリトリーに侵入した事に気付けなかったからだ。
 どう見ても普通に生きているというのにの認識には五感のどれかが絶対に必要となり、何故か気配という気配が一切感じられないのだ。少なくとも、今までダンテはそう思っていた。恐らく、付き合いの長いバージルも彼の意見に同意するだろう。
 だというのに、今のはどうだ。
 生気に満ち溢れているとまでは行かないが、常人並みに気配を纏っているではないか。少なくとも、事務所に近付いて来た時点でダンテは彼の訪問に気付く事が出来た。こんな事は長い付き合いの中で初めての事だった。
 限りなくゼロに近い異常な気配は半分でも悪魔の血が流れるの体質か特性だと勘違いしていたが、そうではない。きっとこれは。
「なんか嬉しそーだな」
「気にするな、で、何の用だ。いつもみたく請求書の類ならヤギの餌に回してくれ」
「んな事したら4つの胃袋全部が紙で破裂して動物愛護団体がプラカード持ってウチに押しかけて来る羽目になるだろうが」
「1匹じゃ不公平だって言うなら複数匹に分けろよ」
「一体何頭必要になるんだか」
 嵩張りそうな請求書とは正反対の薄っぺらい肩を竦めたはサングラスの奥で微笑みながら顎で自身のスタジオを指し示す。自然と、ダンテの視線もそちらへ向いた。
「ネロが早く仕事終わったって豆のスープ作ってくれたんだ。思ったより沢山作っちまったみたいだからさ、ダンテも食いに来いよ」
「そりゃあ有り難いな」
「お、珍しく乗り気だな。ダンテがゴネたら冷凍庫の業務用アイスクリーム全部掻っ払って来いって言われたけど、この分なら大丈夫そうか」
「そんなもの盗んでどうするつもりなんだ」
「最近、ネロと一緒に家で映画見るんだよ。アイスクリームはそのお供」
 一番のお供は長時間放置しても食べられるポップコーンだけどなと続け、この間食べたカラフルなポップコーンのフレーバーを挙げるに暖かな視線を送ったダンテは大きな仕草で椅子から立ち上がり、相変わらず年齢不詳の親友の頭を力強く撫でる。唐突な行動の意図が掴めず、何だよと笑いながら問いかけるを躱して事務所の外に出ると、慌てて追って来たフード頭をもう一度掻き回した。
 手に触れたその色合いと感触に、今更ながらに気が付く。
「この服、ネロのか」
「ああ、いつも着てる服借りた。最近幸せ太りしたみたいで、昔の服に腕とか脚が通らなくなってさ。ネロにはまだ足りないから体重増やせって言われてるけど」
 ダンテのコートと同じ鮮やかな赤に包まれ、避けている陽光に代わり照れ笑いを浮かべた親友を手を止めて見下ろす。フードに遮られその視線が知覚出来ないはずのはしかし、ダンテの心情を感じ取ったのか赤い布に覆われた拳で脇を小突いた。
「今日はエラくご機嫌じゃねーか」
「俺の機嫌は何時だって上向きさ」
「嘘吐け、そーなったのネロが来てからだろ」
「違いないな」
 でもそれはお前も同じだろう、とはダンテは口にしなかった。
 ネロはの多くを変えた。生き方や価値観のような大きなものから、とても些細なものまで。目に見えるものも、見えないものも。そしてこれは、大きなものなのだろうとダンテはの纏う彼自身の気配に人知れず目を細める。
 は、ネロに出会うまで食事や性行為を疎かにする傾向が非常に強かった。苦手意識や嫌悪感のようなマイナスの感情を抱えていたのではなく、興味がなく必要すらないと淡々と切り捨てていた。半魔である事が変な具合に作用してしまったのか、食欲と性欲という本能を遠くへ置いて産まれ落ちた存在で、生存行為に対して非常に消極的な生き物だったのだ。
 ダンテは勿論、バージルも生物として欠陥のあるを若い頃からそれなりに心配していた。ただその反面、半魔にしては脆弱なはそのように生まれついた存在である以上、血の宿命に抗うのは不可能だとも諦めていた。水と睡眠だけは摂取しているのだから、死なない程度に周囲の人間が見張ってやればいいのだと誰に言うでもなく見切りを付けてしまっていた。
 しかしネロは、恋人であるネロはを放棄するなど許さなかったのだろう。
 駄目なものは駄目だと厳しく叱り飛ばし、道理や生活についてを滾々と説き、根気良く面倒を見て、遂にネロはを変化させるに至った。欲という、人間も悪魔も持つものを彼の中から掬い上げ生きるという行為を自覚させたのだ。
 死人のような気配も何もない。は見た目の上でこそ惰性のように飄々と生きながら、意志としては死んでいるも同然だった。だからダンテやバージルすら彼の気配を正確に掴むのは困難を極めていたのだ。
 あのが自分から食事に誘い、恋心に酔うようになった。生きたいという意志から生まれた人並みの気配に揺れ動いた感情を誤魔化すため、もう一度赤いフードを力強く撫でてスラムの隙間から覗く青空を見上げる。
「どうしたよ」
「何も。ただ、が生きている事に胸が熱くなっただけだ」
「俺、最近はお宅のオニーサマに風穴開けられた以外に死にかけた覚えねーけど?」
「おいコラおっさん共、隣に移動するだけなのにどれだけ時間かかってんだ! 外でガタガタ騒ぐ暇あったら料理運べ!」
 2人の間に緩く穏やかに流れていた空気が破られるのは一瞬も必要としなかった。
 感傷に浸るダンテと、何故親友がそうなっているのか分からず首を傾げるに向かってスタジオから顔を出したシャツ姿のネロが今にも中指を立てそうな勢いで怒鳴り、何処かで餌を啄んでいた鳥がけたたましい羽音と共に空へと逃げて行く。残されたのはいつもと変わりのないスラムの光景と、2人のいい年をした中年だけだった。
 至近距離で呼び出しを食らい軽い謝罪の言葉を口にしながら駆け出し、締まりのない笑みを浮かべたをネロは呆れた表情を浮かべつつも深い愛情の籠もった眼差しで出迎える。そして恋人が屋内に入った直後に瞳に込められた熱が氷点下まで下降すると愚鈍な獲物を定め、右手で対象を捕獲した。手加減をするつもりは一切ないようで悪魔の手はダンテの胴体を容赦なく締め付ける。
「相変わらず坊やの愛情は火傷するくらい熱烈だな」
「枯れたおっさんと違って色んなものに情熱を向けられる年齢なんでね。で、ダンテ。デスクワークの進捗はどうなってる?」
「おお、可愛い坊や。そこは察してくれ」
 感情を剥き出しにするネロの表情は、矢張り熱を帯びていた。
 に向けられたものとはかなり異なるが、それでも熱は熱だとダンテは笑い、炸裂した容赦ないバスターによって頭から地面に接吻させられる。
見習って書類仕事しろカスが!」
 この熱を向けられ続けたら、いつか自分ものように変わるのだろうか。ふと浮かんだ疑問はしかし、万が一にでもないという絶対の自信の元で否定された。