曖昧トルマリン

graytourmaline

一睡の傍らで

 事務仕事が一段落しカーテンから漏れた細いオレンジ色を避けるようにして立ち上がったは、さてどうしたものかとソファで眠る恋人を見下ろし穏やかな表情のまま腰に手を当てる。
 5日前にバージルと共に赴いた悪魔退治の仕事は今朝に至るまで連戦に次ぐ連戦だったらしく、睡眠不足の4文字を不機嫌な顔面で語りながら帰宅したネロは帰宅の挨拶もそこそこにシャワーを浴びると、寝室のベッドではなくスタジオにある来客用のソファで睡眠を取り始めた。家主の意向で日が差し込まない部屋に設えられた広く冷たいベッドに対してソファは真昼の暖かさを存分に含んでいたからというのもあるだろうが、眠りに全てを委ねる前の本人曰く、ここならがいるからだそうだ。
 世の女性が一回り以上大きく逞しい男性を見て可愛いと口にする気持ちを深く理解したは、レースのカーテン越しに真昼の太陽を浴びながら寝息を立て始めた白い妖精さんな恋人に薄手の毛布を掛けると物置から椅子を引っ張り出し、変わり映えのない午後の仕事に取り掛かった。いつもと違う事といえば、飛び込みで来店した娼館のお姉様が、やだーかわいいーとネロのご尊顔を評している様子に人知れず同意した程度である。
 余程心地良い夢を見ているのか、あどけない子供の寝顔を無防備に晒し、穏やかな寝息を立てているネロは実年齢よりも幼く見え大変微笑ましい。このまま太陽を西の空へ見送り次に出会うまでの間はゆっくり寝かせてやりたい、そんな心情を抱えるは、しかしそうも言っていられないだろうと頭振る。
 溢れた水のように迫り来る暗闇の気配を感じ取ったのは足元で、夜の帳が下りる前に移動させなければ幾ら丈夫な身体を持つネロども体を冷やしてしまう。出来るならば膝の裏と背中に腕を回し恋人らしく抱え上げてベッドに、と行きたい所だったが、悲しいかな彼はネロとは正反対の非力を体現したような男だった。
 ネロと同じように疲労しているであろうバージルは望まないが、せめてダンテがこの場に同席か今ここに訪問してくれたら。そこまで考え、スタジオの扉が前触れもなく開いた事で視線が逸れる。
「あー。Vか」
「俺が来ては不都合か?」
「いや、ネロを移動させてやりたくてさ。そっちこそ何か用でもあったか?」
「仕事から帰って来たのに、事務所の冷蔵庫は酒しか入っていなかった」
 どうやら事務所内で唯一お留守番をしていたダンテは暇だったにも関わらず食料の補充を怠っていたようで、薄い腹からシャドウの唸り声にも似た音を出したVを見たはサングラス越しにキッチンを見た。
「レディーミールなら買い置きあるぞ。ビーフステーキパイはネロのだから、それ以外な」
「この間食べたラザニアは?」
「その辺あんまり把握してねーんだよな。あったよーな、なかったよーな」
「分かった。ステーキパイ以外だな」
 食料に頓着しない家主に尋ねるよりも見た方が早いと判断したVの背中に向かって手を振り、未だ目を覚まさないネロの枕元にしゃがみ込んだは、Vはラザニア気に入ったんだってと語りかけながら外側に向かってふわふわと跳ねている銀色の頭髪を撫でる。時折前髪を指先で割り、実年齢よりも幼く見える、何時目にしても愛しさで胸が溢れそうになる寝顔を存分に堪能してから全てを諦めた顔で立ち上がった。
 Vと2人がかりでネロを運ぶ姿を想像をしてみたが、両側から肩を抱いても、上半身と下半身を各々で担当しても、移動以前に持ち上がる想像すら出来ない。そのような方法ではネロが起きるのも当然だが、まだまだ育ち盛りの青年の体重に負け押し潰される未来だけが鮮明に見えた。そもそも、恋人を運ぶ絵面ではない。
「毛布、追加するか」
 どうにも起こすのは忍びないと再度屈んで見慣れているが見飽きない顔を眺め、名残惜しそうに髪を撫でた。
 すると、いつの間にか眠りが浅くなっていたのか春に咲く花弁のような唇と長い銀の睫毛がふるりと揺れ、長く深い吐息と共に真昼の空色をした瞳がサングラスに映る。目の焦点が合っていない淡く霞がかった表情は、そのままネロの脳内を表しているように見えた。
「……?」
「おはよーさん」
「はよ」
「まだおネムみたいだな」
「んー」
 眠たげに目を伏せ夢の世界に片足を突っ込んだままの蕩けた顔がの視界いっぱいに広がり、人間の左腕と悪魔の右腕が白く細い首に絡んでもっと近くにと抱き寄せた。寝惚けながらも甘えたいようで、唇での肌に触れ存在の確認を楽しむようなキスが長く続く。
 くすぐったいなと呟き微かに笑みを零したの声が届いたのか背中に右腕が回り頬擦りをされ、テディベアの如く抱き締められていると、徐々にその力が緩み、程なくして寝息が聞こえ始めた。仮眠と呼ぶには結構な時間が経過していたが、それでもまだ休息が足りていないと知り、矢張りベッドで眠るべきだろうと起こしにかかった細い腕を、黒い粒子状の影が引き止める。
「……シャドウ?」
 正体を掴んだの声に呼応した訳ではないようだが、名を呼ばれたシャドウは不定形のまま音もなくネロを包み込むと床を這うようにしてスタジオの奥へ移動し、素早く階段を上がっていった。
 何も知らない人間が見たらホラーだな光景であったが、Vが食事の礼としてネロを運んでくれたのだろうと納得したは微かに残るネロの体温を確かめるように頬に触れ、長く息を吐いた後にデスクへと戻る。そうしてペンに手を伸ばす寸前、煮え滾るクリームリゾットのパッケージを手にしたVがキッチンから姿を現した。
「ラザニアは無かった」
「そっか。しっかしVも律儀だな、態々シャドウ寄越してくれるなんてさ」
「俺じゃない」
「うん?」
「シャドウが勝手にやった事だ。あれは、ネロに懐いているようだからな」
 必要以上に加熱され、とてもすぐには食べられそうにないリゾットをテーブルに置き、スプーンで容器の中を掻き混ぜながら間を取ってから、Vは彼特有の悪い笑みを浮かべる。
「因みにグリフォンは、喧しい存在だと自覚しているから出ようとしなかった」
「オイオイ、Vちゃん。そりゃァちょっとばかし語弊があるだろうがよ! そもそも猫ちゃんが動いたのもお前の心配を汲み取ったからだろうし? 俺が出なかったのも小僧がどうこうってワケじゃなくてさァ、ただ親バカージルに知られたらァ゛!?」
 照れ隠しなのか不名誉と思ったのかはには分からなかったが、呼ばれもしないのに飛び出て来たグリフォンはしかし、全てを言い終える前にスタジオに戻ったばかりのシャドウから突進を食らい、塵を経てタトゥーへと戻って行った。
 相方の強制送還を済ませるとシャドウも役目は終えたとばかりに喉を鳴らしながら姿を消し、残された半魔と悪魔は意味もなく視線を交わしてから、人間と寸分違わない自分の右手に視点を落とす。そうして互いが見えないまま笑みを浮かべた2人は、昼の時間が終わる気配を感じながら黙々とペンとスプーンを動かし始めたのだった。