C級恋愛映画論
意識を周囲の環境に巡らせると外では屋根を打つ雨音が何処までも続いていて、油を塗ったような光を放つネオンの輪郭はカーテンの向こうでいつもより少しだけ霞んでいる。人の気配と雑踏が遠く感じ、隣の事務所も今日は静かだった。
制作に携わった人名を淡々と流すテレビを無視して、あの時とは反対の位置に座るの美しい横顔を青い目が眺める。自分を見て欲しいという望みと、見ないで欲しいという願いが入り乱れ、結局、黙ったまま視線を下ろした。
4日前、分厚い雲に遮られた朝日の中で、約束通り映画を見ようと切り出したのはだった。その夜、深夜営業しているレンタルショップに足を運び幾つか選んだ映画は全て旧作で、レンタルの期限は1週間、そろそろ暇を作ってでも見ないと機会を逃しかねないと考えた仕事帰りのネロがナチョスとアイスクリームを買ったのが今日の昼の事である。そして、唐突な映画マラソンの決行もはいつもの緩い笑顔と仕草で喜び、ちょっと早いけど予約もないからと浮かれた足取りで看板を裏返したのがその日の夕方。
まずは肩慣らしとして選んだのは数年前に一瞬だけ話題となった低予算ホラー・コメディで、俳優、演出、脚本、その他諸々に対して平均30秒に1回の突っ込みを入れながらも存分に楽しんだ。馬鹿笑いが絶えなかった90分間に流れた空気は恋人と呼ぶよりは友人のようであったが、人目も音も匂いも気にする事なくジャンクフードを貪りながら喋り倒すというシアターでは出来ない楽しみ方に満足出来た事はネロも覚えている。
雲行きが外の天気と同様に変化したのは、その次からだった。
不屈の名作と名高いレトロな恋愛映画は双方の肌に合わず倍速で話の筋と落ちだけ確認すると無言でケースへ戻され、近未来SFは主人公の性格が気に食わなかったネロによって打ち切られ、サスペンス要素の入ったミステリーはの脳を素通りして眠りの世界へと誘った。
ナチョスのソースは冷えて固まり、アイスクリームが形を失って常温になった頃、最後の1本である実話を元にした人情派ロードムービーの鑑賞を開始したのが約120分前。速さだけを極めた改造バイクが登場するという至極シンプルな理由で手に取り、ネロにしてもにしても大して期待していなかったこれが当たったが、外れた。
面白いか、面白くないかと問われれば、間違いなく面白かった。
少し笑えて、純粋で、ひたむきで眩しい、羨望と共感と感動がじわりと胸の奥から滲み出てやがて溢れるような良い映画だった。善良な人間ばかりが登場するご都合主義な点も、キリエという慈母のような女性を知るネロにとっては気になる要素にならなかったが、そもそもノンフィクションを謳った映画ではないので気にする必要すらないと声に出さず呟くくらいには面白い映画だった。
ただここに来て、手放しの称賛に値する映画はデートに、少なくとも自分達のデートには向かなかったとネロは知らされた。ネロもも、相手の事などそっちのけで物語に没頭してしまうのだ。
ネロは120分の間、一度としてを見なかった。恐らくも映像に釘付けだったに違いない。現に、スタッフロールに入った今もサングラスに覆われた赤い瞳は文字列を追い続けており、薄く細い体は大理石の彫像のように固まっている。
余韻に浸っている相手に話し掛けるほど無粋でも無神経でもないネロは放置されていたナチョスでチーズソースを掬い口に運ぶが既に油が回り不味くなっていた。氷が溶け気の抜けた炭酸飲料で舌を誤魔化している最中、ようやく現実世界に戻って来たが浅く長い吐息と共に上半身をソファに沈ませ、頭痛を堪えるような声を発しつつ目の前の厚く逞しい肩を抱く。年長である恋人としての色香は皆無で、親に構って貰おうと試みる幼子のような態度だった。
「ネロ。映画、楽しかったか」
「まあ、そこそこ。はずっと見てたよな、俺もだけど」
「ん、そうか」
夢中になっていたのは自分だけではなかったと安堵したのかと思ったが、どうにも違うらしく、ネロの肩口に埋まっていた白髪頭が気落ちした犬に似た仕草で動いてサングラスの隙間から覗いた瞳が上目遣いで年若い恋人を見る。
「仕方ないだろ。面白かったんだから」
「でも、家で見る映画ってさ、肩の力抜いて喋りながら見るもんなんだろ? 最初の映画みたいにネロと一緒にっつーか、もっと近くで見たかった。見た後に色々話すんじゃなくて」
何故こうも上手く行かないのだろうと落ち込む赤い視線を塞ぐようにの頭を胸元に抱き寄せたネロはサングラスを外してから勢いのまま仰向けに寝転び、服の上からやんわりと肌を押す首輪の鋲の感触から犬の印象を更に深めた。
録画されていた媒体は既に吐き出され、深夜の報道番組に切り替わったテレビの中で冴えない顔をしたニュースキャスターが明日の天気について淡々と読み上げている。時折ノイズのように挟まれる外の喧騒は変わらず遠い。
一方的に情報を流す男の外見と同じような天気がしばらく続くようだと知ったネロは、胸の上で何事かを考えている素振りを見せたの名を呼んだ。分厚い筋肉の上で肉付きの悪い腕が組まれ、更にその上に乗っていた顎が緩く動く。おうちデートに失敗した貧相な大型犬の情けない鳴き声の詳細はネロの耳にまで届かなかったが、何を考えているのかは流石に分かった。
「次があるだろ、幾らでも」
「その幾らでもってのが、困る」
「あ? 何が困るって?」
恋人とのデートに対して困るとは何だとネロの白い肌の下から青筋が浮かび、強圧的な唸り声で異を唱える。その反応から言葉を選び間違えたとようやく気付いたはネロの上で全身の筋肉を緊張させ、言い方が悪かったと謝罪を行ってから気配を弛緩させた。
「俺さ、頻繁に外に出られない体質だろ。そーなると家でデートが増えるんだけど、映画ぐらいしか思い付かねーから」
「俺が退屈すると思った、って事かよ」
「まあ、うん」
外出は夜間か雨天、同棲中のおうちデートは新鮮さに欠ける、ネロに惚れるまで碌に恋人と向き合って来なかった所為で経験不足。それらの条件が重なった結果、映画に誘うしかネロを楽しませられないのにそれすら駄目なんて、そうは言いたかったらしい。
ただでさえ薄っぺらい体を萎縮させてちょっと頭の弱い犬と姿をダブらせた恋人の頭を、男らしい指先がやや乱暴に撫でる。
はデートといえば非日常を演出しなくてはならないと未だ気張っているようだが、いい加減に慣れたネロからしてみれば人目を気にせず戯れる事さえ出来れば手段など何でもよくなっていた。レッドクイーンやブルーローズを黙々と点検する姿を穏やかな目で見られるのも悪くないと感じており、曇天に遮られた陽光の下でがミルクティーを淹れる仕草をつぶさに観察するのは密かなお気に入りだった。
そもそも、デビルハンターを生業としているネロにとって、恋人と共にいる時間の中で重要な要素は刺激よりも安寧である。血と泥の中で目を輝かせながら肩を並べて戦うよりも、自身が無防備でいられる帰るべき居場所として確かにそこに在って欲しいのだ。
先程は失敗したと独りごちたがそれは間違いだったと訂正し、胸の上で溶けかけた小動物のようになっているの顎に右手を添えて視線を促した。
悪魔の腕から伝わる体温が平熱よりも高く感じるのはが平静ではない証拠だろうか、首筋からほんの微かに感じられる鼓動も少しだけ速い。
そんな、いつもと様子が少し違うだけでネロは幸せだった。当たり前のようにが隣にいるだけで十分だったのだ。
「馬鹿だな、退屈なんかしねえよ。といられるなら何だっていい」
「……ネロは何処で覚えてくるの、そーゆーの」
「誰かの受け売りって思われるのは心外だな」
年若い恋人の表情を目の当たりにした瞬間が沸騰し、太陽の下に晒された飴玉のような瞳を逸らして顔を伏せた。早鐘を撞くような心音から手を離し白毛の間から覗く朱色の耳朶に触れると驚くほど熱く、抗議なのか殺し損ねた悲鳴なのか判断の付かない鳴き声のようなものが腹の上に乗った唇から漏れ出る。
愛しいと想いが溢れる反面、このまま組み敷いてしまうのは違う気がして、朱に染まったと頬が重なるよう手繰り寄せた。ネロの肋骨の上で握られていた拳に触れると戸惑った様子を見せた後で力が緩み、指先から手首にかけての輪郭を確かめるように何度もなぞってから互いの手の平を合わせて、指同士を絡めるように握る。
「あの、さ、ネロ。手、なんだけど」
「繋いでるだけだろ」
耳元の声に澄ました顔で答えながら親指で生命線をゆっくりなぞればが羞恥心を抑え切れず顔を伏せたまま初心な反応を示した。肉体経験豊富な年長者で、何度も体を重ねているにも関わらず些細なきっかけで可愛らしい姿を晒す恋人にネロは気を良くする。
きっとも出会ったばかりの青臭い自分に対して同じような感想を抱いていたのだろうと近いようで遠い過去に思いを馳せ、それから、血色の良くなっている項を擽るように撫でた。しかし、今度は無反応で会話を拒絶される。
調子に乗り少し虐め過ぎてしまったかなとも思ったが、やっている事は頭に馬鹿が付く方のカップルの交流だとすぐに気付き、そんなものは今更だと直後に開き直った。人目を気にする環境ではなく、第一にして、は無精者で流されがちだが嫌な事は嫌と言える男なのだ、にも関わらず好き勝手され離れる様子すら見られないのはそういう事だろう。
「、こっち向けよ」
試しに声を掛ければは両腕をソファに付くようにしてゆっくりと起き上がってから逆光の中で少し背を丸めるようにしてネロの青い瞳を覗き込み、内から湧き上がった感情に耐え兼ねたように逸らす仕草を何度か繰り返した。恥ずかしがってはいるが拗ねてはおらず、上気した目元が妙な色香を放っている。
このままでいたらなし崩しになると先を見据えたネロは恥じらいながらも自分の上からは退こうとしないを見上げ、その距離を縮める為に腹筋の力だけで起き上がった。反動を逃がす事が出来ず当然のようにバランスを崩した細い腰を抱き止めて、吐息が触れ合う距離まで唇が近付くがキスはせず顔を離す。
「よし。それじゃあ明日、同じ映画見るからな」
「……え、あ。は?」
「借りたら1回きりって制限さてる訳じゃないだろ」
うっすらと汗をかいている背中を撫で、次は中身のない言葉を交わしながら映画を見ようと誘いをかけると、は浮かべていた驚愕の種類を塗り替えて愛しく親しい者を見る目でネロを見下ろして口を開いた。
「取り敢えずナチョスとアイスは当分食いたくねーわ」
「同感だな。ミックスナッツかポップコーンにするか」
「俺、こないだ色んな種類のフレーバー出すポップコーンのワゴン教えて貰ったから行こうぜ。時間があったら、2人でさ」
晴れたらどうするんだ、というネロの言葉は意思を持つ前に飲み込まれ、先程から深夜のニュースを写し続けているテレビの音が一瞬だけ2人の間に流れる。
雨は、変わらず降り続いていた。