鏡越しミミック
キッチンの壁に立て掛けていたレッドクイーンを担ぎながら一足飛びでスタジオまで踏み込みブルーローズの照準を合わせるために腕を上げると、果たしてそこには以外の悪魔がいた。正確には、実父であるバージルのドッペルゲンガーにあたる、青みがかった光を放つ悪魔の姿をした何かが、だ。
ドッペルゲンガーとは何度か顔を合わせた事があり見掛けよりも、いや、実体であるバージル本人よりも気安い存在であるのは間違いないのだが、ネロは、それが何であるのか未だによく分かっていない。彼自身もテンションが振り切れたり気合いの入り具合が壊れると似たような悪魔を背負う事がある、しかし、出現するそれは上半身だけで意思も薄く、似てはいるが同一かと問われると返答に窮する代物だった。彼の先輩格に当たる双子ですら、ドッペルゲンガーに関しては未知の部分が多いと漏らしている。
たとえば、今、ネロの目の前で起きている現実も、未知の一つだった。
「何でドッペルがに金払ってんだよ」
「うん? そっか、ネロは初めてか。バージルさ、いっつもこーやって請求した分払ってくれるんだよ」
以前から請求していたスタジオの修理代を持って来てくれたのだと説明され、ネロは納得する。つい先日ダンテが請け負った仕事の報酬が支払われ、ある程度纏まった金銭が事務所に入って来たので、あればある分だけ使い果たすアホ共が手を付ける前にドッペルゲンガーが動いたようだ。
「理由は分かったけど、金払ってるのはバージル関係なくこいつ本人の意志じゃねえかな」
「そーなのか?」
「多分」
ドッペルゲンガーは魔人化したバージルと同様に厳つく攻撃的な見た目に反し、内面はそこそこ面白い奴である事を彼は知っていた。悪魔の前でかなりお茶目な挑発行動を起こし、バージルに悪魔共々叩き切られる姿を何度か目撃した事もある。
もっとも、悪魔との戦闘中は本体を追従し鬼神の如き働きを見せ、バージルと並び立ち連続次元斬を繰り出して上級悪魔を屠る姿を目撃した時は流石のネロもドン引きした。お巫山戯が過ぎてあれを食らった経験のあるダンテ曰く、一撃必殺ではなくコンボの結果死ぬ事になってしまうような凶悪な技であるらしい。現実世界にバグを持ち込んだ挙げ句に気に障ったというだけの理由で実弟を削り殺そうとするバージルもバージルだが、それを実体験して尚生還して笑い話にするダンテも相当だとネロは思った。
兎も角、腕の発光の原因が無害どころか有益なものであると分かると、ネロは手にしていたブルーローズを下げ、レッドクイーンを背に戻し、警戒態勢を解いた。
「もしかして、腕、反応したのか」
「ああ、まあな」
「心配かけてごめんな」
「謝ってんじゃねえよ、は何も悪い事してないだろ。テーブルの上を片付けろ、そろそろ出来上がるから仕事も中断な」
バージルがドッペルゲンガーを出すのは戦闘中に限られているとばかり思っていたが、所詮はあの双子に属する何かである以上は先んじて考えるなど無駄だと結論付けたネロはに指示を飛ばすとキッチンへと戻る。そうして、ほぼ出来上がっていたランチを両手にスタジオへ帰還しても、ドッペルゲンガーはまだそこにいた。
赤い瞳と青い瞳が交差し、青い瞳の持ち主がおもむろに口を開く。
「こいつ、メシ食うのかな」
「どーだろ」
悪魔であるグリフォンとシャドウは嗜好品だと口にしていたが純粋な悪魔と定義していいのかも分からないドッペルゲンガーは、と無言で交わした会話の後に、物は試しにと悪魔の腕がバケットを一切れ与えてみる。青い燐光を放つ両手が素直に受け取り、そして、表情は分からなかったが明らかに困惑したような仕草でネロとを交互に見た。
「食わねーどころか困ってんな」
「まあ、予想は出来てた」
そう言うとネロはドッペルゲンガーからバケットを返して貰うとの口に放り込み、困らせて悪かったと軽く謝罪をする。言葉が通じているのかすら分からないが、ドッペルゲンガーは気分を害した様子もなく興味深そうに2人のランチを観察し始めた。
軽くトーストしたバケットと少し形の崩れたプレーンオムレツ、根菜とベーコンのコンソメスープ。シンプルなワンプレートを目視で確認し終えたドッペルゲンガーは、何を思ったのかフォークを手に取るとオムレツを掬い、スープを飲んでいたの口元にまで差し出した。
「要介護って認識されたのか?」
「俺の真似してるだけだと思うけど」
ドッペルゲンガーって割とそういうものでもあるだろうとネロが言うと、悪魔関係の知識が皆無のは深く考えず納得し素直に口を開く。するとオムレツが放り込まれ、次にバケット、すぐにスープ、オムレツとルーティンが完成した直後、早々に音を上げた。
「……ペースが速い」
「口開かなきゃいいだろ」
「いや、こいつ結構ごうぐっ」
強引に給餌するタイプだと言い掛けたの口内目掛けてフォークが突進し、オムレツがまだ残っている内からスープ、そして辛うじて液体が飲み込まれ瞬間にバケットが捩じ込まれる。ネロが見ている限り、一応も抵抗らしきものはしているのだが、物理的な力の差で押し切られていた。
恋人が助けを求めているのだから加害者に対して苦言を呈すなり実力行使で止めるなりするべきなのだが、フォアグラを作る工程を呑気に連想したネロは自身の内側に湧き上がった感情を汲み取って確認し、ひっそりと溜息を吐く。自分以外の者の手で食事を与えられる事を拒絶しなかったへの罰だと、要は嫉妬し苛立っていたのだ。
些細な事でやっかむ自分自身に呆れながら食が細いの胃と体が限界を迎える前に止めるべきだろうと右手を伸ばすと、ドッペルゲンガーは何故止めるのかと言いたそうにネロを見る。視線や表情の動きは硬質でほぼ認められないのだが、態度がそのように語っていた。
「無理に食わせるな、は食欲が薄いんだ」
言語でのコミュニケーションが可能なのかも分からなかったが、幸いな事に意味は通じたらしい。ネロの言葉は真実なのかと青く発光する目に問われたは一も二もなく頷き、物が溢れないよう口を押さえながら必死に咀嚼を繰り返していた。
若干涙目になっている姿に罪悪感を覚え、に触れようとした手が宙で止まる。どうしたのかと赤い瞳が問い掛けた直後、何の前兆もなくドッペルゲンガーが消失した。
本来いるべき場所へと帰還したのだろうが、唐突に過ぎるタイミングからしてドッペルゲンガー本人の意思ではなくバージルが気付き呼び戻したのだろう。事務所から悪魔や襲撃の気配はしないので仕事でも入ったのだろうかと若干慌てながら食事を済ませようとしたネロに、前兆もなく扉が開いたスタジオの入り口から声が掛けられた。
「ネロ、依頼が入ったから出るが」
「分かった。今行く」
閻魔刀を手にしたバージルの姿と予想通りの言葉を受けて立ち上がろうとするネロだったが、単独で行くと続けて宣言され眉間に皺が寄る。
不満を顕にした息子に対し、父親は魔具の鑑定だと心底嫌そうに溜息を吐いた。それでも普段ならば何事も経験だと連れて行ってくれるのにと言葉が出る前に、やっとの事で全ての料理を飲み込んだが得心したように指を鳴らした。
「バージルがそんな顔するって事は、依頼人って青少年に対する教育的配慮が必要な感じの奇人か変人か狂人か。エロとグロのどっちだ?」
「……バーテンダーだ」
「あの人か。じゃあ、うん、ネロが息子って知られてるし、そもそも腕がマズいよな、留守番の方がいいか。気を付けてっつーか、気を確かに持ってな」
依頼人の名称で全て腑に落ちたと全身で語ったは、中腰のまま不審な表情を浮かべたネロを元の位置に戻しながら入り口に向かって軽く手を振る。対して、バージルは親友からの挨拶には応えず、ネロに向かって事務所の電話番はVに任せたとだけ言うと返事も待たないまま扉を閉めてしまった。
納得出来ないまま残されたネロだったが、バージルを追いかけようとはせず、を羽交い締めするように抱き寄せながら、誰だよと短い質問を投げかける。
「うーん。混ぜるのが趣味で仕事で性癖でテンション高めの人?」
「はあ?」
その説明で理解と納得をすると思っているのかと雰囲気で語るネロに怯えた訳ではないのだが、は続けて付け加えた。
「簡単で普通な方法とか、難しくて普通じゃない方法で、ユーキブツとかムキブツとか混ぜてるって説明された。バージルも半魔だから気に入られてるみたいなんだけど、色々問題が多い人っぽいからなあ」
「も半魔だろ」
「言う隙も暇もなかったから知らねーと思う。つーか、あの人、俺の事はただのアルビノと思ってるから顔も名前も覚えてない気がする」
いきなりスタジオに乗り込んで来てアボカドの新たな一族の為にアリゲーターと洋梨の厳粛な結婚式しなきゃだからタトゥーカバー大至急よろしくと札束と共に大声で注文してきた人物にビジネス以上の軽口を告げる勇気も気力もなかったとが言うと、どのような依頼人なのか何となく察したネロは同伴を却下したバージルにひっそりと感謝する。話を聞く限り関わると面倒な人物で、過去の無精極まりなかった時代のの記憶に未だこびり付いている辺り碌でもない人間性なのは間違いないと確信した。
バージルが帰って来たら慰めようと呟くネロの腕をが撫で、ふと笑う。
「その場にドッペルがいてネロの真似やり出したらスゲー事になりそう」
「揉め事が起こる予感しかしねえ。またスタジオの壁と床に穴が開くかもしれないのに笑ってんじゃねえよ、折角修理代が戻って来たってのに」
きっと自分がダンテに出会う前に請求していた分だろうけど、という言葉は続ける事なく飲み込んだが、諸々に出てしまっていたらしい。絞めるように組んでいた腕を外したネロには肯定の意味を含んだ柔かい苦笑を返した。
「そんな事だろうと思ったよ」
四方に不満をぶつけ悪態をつく恋人の姿も愛しいのか、は食事を続けようとしていた手を止めてソファに座り直し、筋肉に包まれた腰回りに手を添えながらキスをするような仕草で頰を寄せる。
甘えるように慰められるのは嫌いではないが余裕ぶった態度が気に食わないとネロが無言で語ると、そうではないと苦笑の種類を変えたが恋人の表情を滲ませながら目を細めた。
「もういーかなって」
「何が」
「ドッペルがいる間、俺がキスもハグもしなかった理由。ネロと同じなんだよ」
詰めた距離をそのままに肩に頭を乗せ、白い髪が頬を擽る。仕事で使った保湿クリームとグリーンソープが僅かに香り、触れ合った箇所から体温と共にゆっくりと伝わった感情がネロの動きを止めた。
嫉妬と、独占欲と、警戒心。ネロの持つ烈しいそれとは異なり慎ましく穏やかだが言葉や態度と共に確かに伝わった感情は全く同じもので、湧き上がった情動と紅潮した顔を誤魔化すように、悪魔の右腕で細い体をこれ以上ないくらいに抱き寄せた。