曖昧トルマリン

graytourmaline

珈琲に託け

 が所用を携えて隣の事務所の扉を開け目に入って来たのは、親子ほど歳の離れた若い恋人が見知らぬ男前に迫っている現場だった。
 短く刈られた銀色の髪に精悍な横顔の青年、深い青のコートの袖から覗くメタリックな右腕、背は高く体格もいい。
 顔立ちはネロによく似ているなと思いつつ、十中八九、双子の関係者だろうと結論付け、紙切れを持った白い手を挙げながら挨拶をすると、それを合図としたかのように青年の輪郭が粘度を持った塵のように宙で黒く崩壊した。
 人間の姿が崩れた先、青年が立っていた足元に現れたネコ科の獣に似た悪魔を見てがシャドウだったのかと呟く。そういえばVがスタジオに投げ込まれたあの日、暴走しかけのバージルを食い止めていた際に形状変化系の攻撃をしていたかと記憶を思い出した。ついでに、恋人と友人の事務所を訪れた理由も。
「よお、ネロ。バージルかダンテいるか」
「おっさんは今朝から遠出の仕事。バージルはおっさんの仕事関係の資料を徹夜で調べたとかでさっき寝た、急ぎの用なら叩き起こすけど」
「いや、そこまでの必要はねーわ。紙切れ渡しに来ただけだから寝かせてやってくれ」
 Vがこちらの世界へやって来た際に破壊された我が城の修繕費諸々の請求書だと指先に挟んだ色紙を揺らせば、瑞々しい顔の底から何種類もの感情をミキサーで撹拌した泥土じみた表情が浮かぶ。ネロの立ち位置からしてみれば複雑な心境になるのも仕方がないとも分かっており、いつも通りの飄々とした態度で薄く笑うに留まった。その笑みを確認してから、ネロは溜息を吐きながら時間あるよなと投げ掛けて背を向ける。
 ネロの事を気に入っているのか、甘えるように脛に擦り寄るシャドウを引き連れてキッチンに入り、戻って来た手には3つのマグカップ。全く気付かなかったが、よく見てみるとソファの上でVが雑誌片手に船を漕いでいた。相変わらず抽象的で小難しい内容の物を読んでいるのだろうかと正面に腰掛けて無遠慮に表紙を覗き込むと、そこにはクロスワードの文字が見て取れる。
「うーん。頭を使うって点は一緒か」
 いつもはシャドウとセットでいるグリフォンの姿が何処にも見当らない理由を何となく察しながら、やや強引に関連性を持たせたは受け取ったマグカップに口を付ける。植物の根を焦がした煮汁に古びたボールペンのインクを垂らして湯で薄めたような、美味とは表現し難い相変わらずの味がした。
 味覚は正常値だが食に対するハードルが様々な意味で低いは文房具の苦味が加わった飲料に不味いと文句を付ける事もなく、インスタントコーヒーの香りがする黒いそれを喉から胃へ送る。脳の半分以上が夢の国へと引き摺り込まれているVには丁度いい刺激となるだろうと曇ったサングラス越しに視線を上げてみると、眠たげな眼で香りだけ吸い込んだVがシャドウを呼び寄せ、その大口にマグカップの中身を注ぎ込んでいた。
 の脳裏に、猫舌だとか、ネコ科にコーヒーだとか、僅かばかりの単語が浮かんだが、この間は香辛料に塗れた肉を食べていた悪魔なのだから問題ないのだろうと大雑把に片付ける。
「香りは悪くない」
「味は煎じた雑草の抽出液を古新聞のフイルターで濾した泥水だけどな」
「それでも、ネロが淹れたものが一番まともだ」
「そりゃどうも」
 淹れた当人であるネロも手に持ったコーヒーに対して辛辣な評価を下し、Vの行動を特に咎める様子はなかった。どうやら、この事務所内では既に当たり前のものとして馴染んだ光景らしい。
 微笑ましいなと、ソファの上で悪魔の腕に腰を抱かれながらはゆるりと口の端を吊り上げた。
「仲良いなあ」
「なんだよ、。嫉妬か?」
「いや。気の合う同僚で良かったなって、他意はねーよ」
「確かに、ネロとは、共にいても苦痛を感じる仲ではないな」
 ストレートに心地良いとは言わず婉曲した言葉で心情を口にする姿がいかにもVらしい。ネロのみが名指しされたという事は店主の双子共は違うのだなとは考えたが、あの2人の普段の言動を顧みてVの評価を否定する要素がないと気付いたので黙って目の前の光景を眺めるに留まった。
 黒く固く透明な膜を隔てた赤い視線の先、熱いコーヒーの滝を飲み干し終えたシャドウは数秒ソファ周辺を彷徨いてから宿主の膝を枕にしてソファへ寝そべる。その耳裏や頭頂部をタトゥーが描かれた指先で掻かれる様子を眺めていると、同じ色をした瞳に何か用でもあるのかとばかりに睨み返された。嫌われている訳ではないのだが仕事上纏わざるを得ない匂いがお気に召さないらしく、シャドウはに対して当たりが強い。
 黒い肢体が柔らかく半回転して完全にイエネコの態勢を取った悪魔に、宿主たるVは特に小言を溢す事もなく黙々と顎の下を撫で上げる。雷鳴と呼ぶよりはエンジン音に近い音がとネロの耳にまで届き、大型のネコ科は喉鳴らしが可能か否かが未確認だったようなと考えながらインクの匂いが染み込んだ手がマグカップをテーブルに置いた。
「さっきまでシャドウが化けてた奴、気になるのか?」
 恋人の視線の意味を測り損なった青い瞳が間に割って入り、悪魔の右手が細い腰を更に強く抱く。その勢いのまま逞しい胸板と警戒するように光る腕の中に閉じ込められ、サングラスに遮られた輝きが網膜に届いた。
 さてどうしようかと数秒逡巡してから己の行動を決めたは、久し振りに恋人が見せた嫉妬に軽く頬を寄せて応える。向かいのVは頬杖を付きながら、暇潰し以上の意味を持たない好奇心を欠いた目で銀髪と白髪頭の恋人達を観察していた。
「心配するなって。俺はネロ以外眼中にないからさ」
「……だから心配なんだよ」
「うん?」
「アレは俺の世界のネロの姿だ」
 むっつりと俯きがちに呟かれたネロの言葉を補足したVは膝上のシャドウを視線でのみ見下ろすが、形状をあの青年に変化させるよう指示を出す事はなかった。シャドウも自発的に変化を選択する事なくVの指の動きや手の平の温度を享受するに留まっている。
 何故Vの世界のネロの外見を本人にお披露目する事になったのか。ソファの隅に放置されたクロスワードの雑誌が答えなのだろう。
 こういう場合は普通、恋人たる自分が隠れてVにお願いして、それを目撃したネロが浮気かと荒みドロップキックを食らう辺りまでが求められるセオリーではないだろうかとは薄っすら考えたが、そもそもシャドウが人間に化けられる事すら知らなかったのにどうしろと、と脳内で指摘が入った。
 しかし、まじまじと見た訳ではないが、あの青年は未来のネロだけあって容姿はの好みではあった。子供特有のあどけなさや可愛らしさは鳴りを潜めていたが、大人の色気と雄々しさを滲ませ始めた美丈夫の姿を思い出し、自身の感情の動きを把握してから指先を鳴らしネロの不安を汲み取る。
「違う世界でも相手がネロなら、俺は絶対惚れるだろうからな。隠すのも仕方ねーわ」
「それはそれで、顔だけ好きだって言われてるみたいで嫌だ」
「ネロも俺の顔好きじゃん。で、俺の全部も好きだろ?」
「好きだけどさあ……それでも嫌だ」
「こちらのネロは面倒臭いな」
「ああ?」
 自分が面倒臭い事など百も承知の上でそれでも嫌なんだよ文句あるか、と眼力で語るネロの視線を白い手が塞ぐ。親友の双子相手ならば気の向くまま好きにしろと放言するであったが、細身で如何にも喧嘩に慣れていなさそうなV相手には流石にストップをかけるべきだと判断を下した。
「そりゃあ、俺のネロはVの知ってるネロよりも人生経験浅いからなあ。若い内の数年ってかなりデカいから反応が違うのも仕方ないんじゃね。つーか、そもそも世界が違うし。でもさ、俺的には寧ろこーゆー所がイイと思うんだけど?」
「So sung a little clod of clay,
 Trodden with the cattle's feet,
 But a pebble of the brook
 Warbled out these metres meet」
「あー……土塊と小石が何だって?」
 いつの間にか何時もの詩集を広げていたVが何処かのページの一節を朗読して、の質問に答えないままソファに寝そべる。シャドウも体内に戻し、本格的に寝ると無言で宣言するその姿を見てネロは仕方なさそうな顔をしつつも名残惜しげに腰を上げて、空になった3つのマグカップを左手にその場を去ろうとする。
 その背中を、恋人の声で呼び止めた。
「Vかバージル起きたら電話番交替して、ちょっとだけサボってミルクティー飲みに来い」
 酸味と苦味が残る唇でキスを投げるとネロは一瞬だけ驚いたような表情を見せて、すぐに持ち直し、大股でに近付くと、お返しとばかりに熱で色付いたそこを甘噛みするようにキスを返す。
 互いの歯止めが効かなくなる前に短く浅いキスを終えると、先程の青年によく似た雰囲気を纏ったネロが笑っていた。頬と耳を唇と同じ色にしながらも、酔うにはまだ早い時間だろうと自制しは仕方なさそうに後頭部を掻く。それを見て、ネロは色を含んだまま更に深く微笑んだ。
「ミルクティーより先に、口直しな」
「碌でもねー味がしたわ」
「知ってる」
 埃臭く雑味ばかりのするキスを終えた2人は、穏やかで擽ったい表情をしながらどちらともなく離れ、各々が居るべき場所へ足を向ける。事務所の扉を閉める直前にの耳に届いたのは、水の流れる音と、地に伏すように眠るVの気息だけだった。