曖昧トルマリン

graytourmaline

DONKEY!

 悪魔と人間が混ざった血、封が切られたばかりの消毒液、香ばしく焼かれた小麦、ケミカルなインク、バターが濃いシチュー、真新しい紙、ほろほろに溶けかけた肉、鉛筆の芯と木屑、煮崩れた野菜。そして全身を覆うようにマーキングされた、ネロの香り。
 床に寝そべる己の姿を黙々と描き写しているから相反する匂いがする事にシャドウは気付いた。気付ける程に暇だった、とも言い換えられる。
 飽きた。早く帰らせて。長い尾の先端を緩慢に床へ叩き付け、赤い瞳で宿主たる男を恨みがましく見上げるも一切の意思確認を行わないままモデルを申し付けた当人はどこ吹く風とばかりに手にしていた本のページをめくるに留まっている。宿主であるVは几帳面そうに見えて大雑把だ、ついでに、極端に自分勝手でもある。
 だからなのかは知らないが、シャドウ自身にも勝手に帰る程度の自由は認めらていた。認められてはいるのだが、しかし、何となく感じた居心地の悪さに仕方なく顎を床に付け引き続き待機の体制をとる。
 やれる事もないので陽だまりの中でだらしなく一回転。鼻孔を刺すような清潔に過ぎる匂いには多少辟易するが、温かく滑り心地のいい床でのびのびと身体を伸ばせる環境は嫌いではなれなかった。シャドウ的には隣の事務所の窮屈で雑然とした環境もアレはアレで好ましいのだが、床を転がるとVがちょっとだけ不機嫌なる事を学習してからというもの気を付けるようになった。
 ネコチャンガヒマダッテヨ、事務机の上で羽の手入れをしていたグリフォンが要点のみの通訳を行う。大口を開け欠伸して訳が正しい事を態度で伝えると紙を擦っていた鉛筆の音が止まった、サングラスを掛けた顔が時計の針を見て現在時刻を確認すると、ごめんなあと間延びした声で謝罪された。
「思ったより時間食っちまったな」
 細い、余り体温を感じさせない指がシャドウの顎を擽る。毛並みを乱すだけの、下手くそな手付きだった。
 ようやくモデル作業から開放されたと安堵しながら黒鉛と粘土の匂いが付着してしまったのでVの所にまで戻り、まずは撫で直して貰う。古い本の香りがするVの指で毛並みが整えられ思わず喉が鳴る、グリフォンがニゲラレテヤンノヘタクソとを揶揄していた。
「うーん。俺が動物に逃げられんのってコレも原因かもなあ」
 そもそも手付き以前に鼻を刺すような消毒液と染料の匂いが嫌だと抗議を含めてシャドウが軽く唸ると、それをグリフォンが正確に訳して伝える。中々にまどろっこしいが、これがグリフォンなりの暇の潰し方なのだろうと勝手に納得しVの傍らに伏して目を閉じた。
「匂いかあ、流石にそりゃ消せねーわ」
「ゴミ収集か下水道清掃のバイトでもやりゃァいいんじゃねェか?」
「具体的なアドバイスありがとよ。客に逃げられそーだから止めとくわ」
 生ゴミや下水臭い手で撫でられるのは別に構わないが、Vが顔を顰めそうだから、それが嫌だった。その気持をグリフォンは訳さず、何やらと漫才じみた調子で下らない事を言い合っている。
 敢えて1人と1匹の掛け合いに加わる必要性も見出だせず、このままVの中へと帰ってしまおうかとシャドウが顔を上げ、そのまま鼻先をドアに向けて静止した。
 ネロの匂いが近付いている、悪魔の返り血と、それに食欲を唆るいい匂いも携えて。
 シャドウの様子が変化した事に気付いたVも本から顔を上げ、そのまま片手で閉じた。ぱたんと軽い音と共に、柔らかな古紙の香りがシャドウの頭上に降ってきて、思わずくしゃみをする。それに気付いたのか、とグリフォンも戯れを止めていた。
「ネロが帰って来るようだ」
「え、マジか。今日は早かったな。メシ買って来るって言ってたし、じゃあシチューは火だけ入れて晩飯に回すか」
 いつの間にかグリフォンに肩を捕まれ踵が宙に浮いていたがVの言葉と共に地上に降ろされ、足取り軽く扉に近寄る。
 体の全てを使ってネロの事を好きだと言っていた、全身をマーキングされるだけの事はある、そう思ったのはシャドウだけではないようだ。
「飼い主を待つ犬だな」
「まあな、首輪も着けられてるしな」
「犬用の? なァんてな。流石にそりゃ」
「おー、グリフォン正解。犬用だってよく判ったな。まあ、大抵のヤツは気付いても言わなかっただけかもしれねーけど」
 鋲の入った赤い首輪に触れてが笑う。逆に、グリフォンは不審げな声色で聞き返した。
「えェっとォ、冗談抜きでマジモンな首輪な訳? 形見とかファッションとかオシャレアイテム的なアレじゃねェの? しかも犬用とかさァ、ちょっと引くわーソレ」
「シャドウやグリフォンもVに見繕って貰ったらどうだ」
「無駄な出費だ。仕事に出た直後に破壊されるのは目に見えている」
「なァ、V。それブッ壊れなきゃ首輪着けてたって事だよな? しかも引くって言ってんのにオススメするとかお前もお前で本当によォ」
 グリフォンの質問にVは答えず来客用のソファに移動し、シャドウはそれにお供する。この店のソファの寝心地は中々いいものだったので寝そべっていると、は嬉々としてスタジオの扉を開け恋人を出迎える。シャドウは事務机の上に戻っていた。
 ハグだけの挨拶を済ませた恋人の内、片方はキッチンへと去り、もう片方は片手に抱えていた紙袋をVとシャドウの前に置く。
 中からは香辛料がまぶされた肉の香りがした、いい匂いの正体を掴んだシャドウがVの脚に頭を乗せ軽く喉を鳴らすと背中を撫でる。スッカリタダノネコチャンニナッチャッテとグリフォンが言った。Vに頼まれた仕事はそつなく熟しているのだから、待機中くらいは息抜きしてもいいだろうとシャドウは思ったが、思うだけにしておいた。
「上級悪魔って腹減るのか知らねえから、一応多目に買って来たけど。グリフォンとシャドウはどうする?」
「必要ないが、どうだ」
「嗜好品っつーか、そっかVちゃんとには言ったが、ネロには伝えてねェな。まァでも興味はあるから一口寄越しな!」
「デカイ口と声の割に愁傷な鳥だな。1個ずつやるから喧嘩するんじゃねえぞ、それと、机も汚すなよ。が仕事で書類整理するんだからな」
 デビルハンターで悪魔とのクオーターにも関わらず真っ当過ぎる言葉を口にしているこの少年が、あの青年に犬用の首輪を着けたのか、とはグリフォンも流石に言わなかった。
 ネロは基本的に常識的で良識的な人間だが、一度アクセルを吹かすと彼の獲物の女王様よりも過激な面を見せる。下手な事を言うと食事を取り上げられるどころか、今夜のディナーの食材にされる可能性だってあるとグリフォンは思い至ったらしい。
 その間も、自分には関係ないとばかりにシャドウは喉を鳴らし続けていた。が持って来た大きな平皿にパンに挟まった肉が乗せられ、約束通り1つはグリフォンの、1つはシャドウの前に置かれるまでそれが止む事はなかった。
「ああ、それと。がVから聞いたっていうココナッツミルクとスパイスが入ったミルクティー? 似たようなやつが売ってたから買って来たけど」
「へえ。なんかストロー太くね? ふーん。中華系のテイクアウトか、今はこーゆーのが流行ってんのかね」
「知るかよ。それよりものはこっちな、バレないと思って肉が少なそうなの選んでんじゃねえよ」
「……何だ、この底に溜まっている黒い豆は」
「芋のデンプンを丸めてゼリーにした物だってさ。カエルの卵みたいで気持ち悪いから、俺の分は抜いて貰った」
「ネロはカエル苦手だもんなあ」
「そうなのか」
「言っておくけど苦手なだけだからな。怖いんじゃない」
 宿主達が仲の良い会話をしている傍らで、シャドウは皿の上の中華風サンドイッチに鼻先を寄せる。
 香ばしく焼かれたパンは、まだ温かい。薄切りにされた肉がたっぷりと挟まっているが、何の肉かは判らなかった。初めて嗅ぐ肉の匂いだ。それにグリーンチリペッパーと、独特の匂いがするハーブ。
 真っ先に嘴を付けたグリフォンは、緑色が邪魔だけどまあまあだと評して、言われた通り机は汚さず食べていた。器用なものだとシャドウは思う。
「ロバの肉もいけるな。ハンバーガーのようにソースで手が汚れないのがいい」
「へえ、これロバ肉なんだ」
「驴肉火烧と書いてあるだろう。知らずに買って来たのか」
「一番いい匂いがする屋台だったから。俺が判るのは英語だけ、中国語なんてニーハオくらいしか言えないし、読み書きなんて論外だ」
 大口を開けて薄切り肉を頬張るネロを真似て、シャドウも口を開き、まずは舌で舐めて味を確かめる。少しぴりぴりと痛む感覚がして擽ったかったが、悪くない。肉の一片を咀嚼してみると悪魔とは違う、複雑な味がする。
「つーか、ロバとネコとトリとイヌって、ブレーメンの音楽隊じゃねーか。ロバが現在進行系で食料になってる最中だけど」
「猫と鳥だけで強盗を襲撃するには十分だから、死んでいても構わないだろう」
、夜まで仕事ないよな。食後に躾し直してやるから覚悟しておけ」
「え、なんで?」
「童話の中で、犬は飼い主の元から逃げ出して新天地で幸せに暮らしたからだろう。俺達は食事を終えたら隣へ帰る、その後で、飼い主は犬を好きにすればいい」
「そうさせて貰う」
「V、さっさと食べて帰ろうぜ。コイツらっつーかネロが凄ェ目で仮にも恋人の事見てやがる。ベッドに行く前にこの場でおっ始めそうじゃね? 男同士のSMポルノなんざ鑑賞したくもねェんだけど?」
「サンドイッチはいいが、この飲み物は……飲み難いな。ゼリーの弾力と粘り気が強くて、吸い込むと急に来て、喉に詰まる」
「俺は別の意味でメシが喉を通らなくなったんだけど」
「首輪じゃ飽き足らずリードも欲しいって?」
「Vちゃん俺のお話という名の忠告聞いてる? お前はなんでネロと付き合ってんの?」
 食べる、喋るを同時に行う人間や悪魔達の会話を聞き流しながら、シャドウは与えられたサンドイッチを口の中へ迎え入れ、ゆっくりと咀嚼する。
 次にと顔を会わせる時には、ネロのマーキングがより一層激しくなっているだろうと誰もが予想しえる未来を描きながら、スタジオの主と同じ色をした瞳は窓から見える青空を眩しそうに見上げた。