曖昧トルマリン

graytourmaline

羅紗を転がる球のように

 仕事を終えたネロがスタジオの扉を開けると丁度恋人が客を送り出す所だった。
 脇に避けて軽く目礼すると、全身にタトゥーを入れたと同い年くらいの男性が上機嫌で片手を挙げ、口笛を吹きながら夜の街へと消えて行く。その視線の端から伸びた白い腕がネロの肩に回され、追うようにして唇が頬に触れた。
「よお、おかえり。ネロ。お疲れさん」
「ただいま。メシ食ったか?」
「食えたぜ、今日はそこそこ暇だったから。シャワー浴びてこいよ、ネロの分のスープ温め直しておくからさ」
「ありがと」
「どーいたしまして」
 時間帯的に最後の客だったのか、看板を裏返して鍵を締め終わるとはいつもと変わらない後ろ姿を晒しながらキッチンへ姿を消す。
 彼を抱いてからというもの挨拶程度のキスだけでは物足りないと飢えを覚える反面、今迄はこれくらいの接触が普通なのだから盛るなと理性が本能を抑え込んだ。ネロは互いの愛情を肌で確かめ合いたいのであって、性欲を処理したい訳ではない。
 少し触れただけでやらしい考えに直結する思考に落ち込みながら軽くシャワーを浴び、髪を乾かして階下に戻る頃には立派な夕食兼夜食が用意されていた。勿論全てネロの作り置きでは一切キッチンに立っていないのだが、大切なのはそこではないので気にしていなかった。
 具が萎びた2日目のミネストローネと日持ちするパン、それに冷たいチーズとハム。終業時間が読めない者同士の平日の夕食などこれで十分じゃないかと独りごち、簡単な伝票整理に追われていたに何か言ったかと話し掛けられるも何でもないとだけ返す。
 いつも通りの穏やかな時間がゆったりと流れ、やがて書類仕事を終えたがミネラルウォーターを手にネロの前へ座る。その後の行動は様々で、黙って恋人を観察する日もあれば、客から聞いた面白い話を身振り手振りを交えて披露する時もある、今日はどうやら前者のようだった。
「そうだ、。前から気になってたんだけど、さっき擦れ違ったあの客みたいに全身にタトゥー入れる時って、やっぱり全裸になるのか」
「範囲広いから一気に入れる事はないけど、そうりゃあな、他にも下半身とか女の胸とか、服の上からじゃあ出来ねーもん」
「だよなあ」
「何だ、ネロ。嫉妬か?」
 昔の、それこそと出会ったばかりの自分ならば嫉妬しただろうとネロは己の過去を振り返る。
 しかし、今は違う。がデビルハンターという危険な職務に対して口出ししないように、ネロもタトゥーアーティストに必要不可欠な要素にケチは付けない。
「仕事だろ。それに、アンタが触れる方だし」
 とはいえ、それはそれである。言外にに触れられるのは自分だけだと主張するネロの意図を汲み取ったのか、ストレートな告白に白い肌が朱へと変化した。サングラスに隠されていた瞳が潤み、表情や雰囲気が一変する。
 慌てた様子で立ち上がり、スタジオの掃除をしなくてはと言い訳を繰り出しつつ逃げようとする手首を捕まえて引き寄せた。細く軽い体は簡単に腕の中へ収まり、熱を持った皮膚が肌越しにが抱え燻ぶらせている羞恥をネロへと的確に伝える。
 自称無精で飄々とした恋人がたった一晩の行為の後ここまで変化するとは思わなかった、もっと溺れてしまばいいのに、そんな気持ちを隠す事なく深いキスをしようと僅かに口を開けると、大口を開けた邪魔者が扉も壁も関係なく無音で侵入して来た。
「オォイ、ネロちゃんよ! 依頼だってよ、合言葉ありのオ・シ・ゴ・ト! 折角帰って来たのにざーんねって、げェッ!?」
「そう言いたいのは俺の方だ、空飛ぶ羽付きドブネズミ」
「待てって! ステイだ、ステイ! そうキレんなよ! まさか仕事場でイチャ付いてるとかフツー思わねェだろうが! あァ、でもこの間キスしようとしてたか?」
「手前の嘴を減らせばその耳障りなお喋りもちょっとは大人しくなりそうだな」
 右腕から魔力を補給したブルーローズを構え殺気立つネロに突然の侵入者、グリフォンが喚き、ネロの周囲の空間が青白く光り始める。
 それを止めたのは当然、スタジオの主だった。
「あー。ほら、ネロ。見た感じ、急ぎの仕事だろ。グリフォン来たって事はVと行くんだろうし、待たせてやるなよ」
「……判った」
 邪魔が入った事で纏っていた色気を霧散させてしまったに言われ、渋々立ち上がったネロは頼りになる相棒達を携えてスタジオの入口へ向かう。
 勢いよく開けた扉の向こうには、シャドウを形状変化させ今正に障害物を切り刻もうとしていたVが居た。家主の助言は的確だったようだ。
「何やってんだよ、どいつもこいつも」
「ノックはした」
「グリフォンが喧しくて聞こえなかったんだ、一々声がデカイんだよあの騒音鳥」
「そうか。だが生憎、会話と壁抜けが出来るのはアレだけだ」
「逆だろ、普通。せめてノックしてから送ってこいよ。で、場所は?」
「なァんかオレの扱いだけ悪くない?」
「黙っていろ」
 聞けば場所は然程遠くなく、湧いた悪魔も数だけは多いが雑魚ばかり。日付を跨ぐ頃には帰って来られるだろうとVは言い、電灯が煌々と輝くスタジオに目線を送る。
 恋人に一言告げる時間は取ってくれるらしいので、ネロは素直に好意に甘えた。
、先に寝ててくれ。日付変わったくらいには帰れると思う」
「はいよ。怪我しねーようにな、ネロ。それにVも、気を付けてな」
「俺もか?」
「何驚いてるんだよ、当たり前だろ。メシはもう下げていいから、戸締まりだけはちゃんとしろよ。鍵は持って出るから。じゃあ、行ってくる」
「あれェ、それだけ? 別れを惜しむ恋人同士のお熱いディープキスとかさアァ!?」
 先程放てなかった弾丸をグリフォンの顔面すれすれに威嚇射撃し、次は嘴と頭蓋骨を砕くと低い声で宣言すると大きな鳥は粒子化してその場から逃げるように消える。流石に逃亡先に攻撃を加えるネロではない。
 シャドウを従えて歩き出したVの背中を眺め、一度振り返ると扉の前でが緩く手を降って送り出してくれていた。多分、姿が見えなくなるまでああしてくれているのだろうと思うと胸の内がむず痒くなり、笑みが溢れる。
 甲斐甲斐しい男だと言うVの隣に追い付き、本人と周囲の人間は揃って無精だと言っているとだけ告げた。その男をあそこまで変えたのは自分だと続けるのは何だか自慢のようだと思い、ネロはその言葉を優しく包んで胸の中にしまい込んだ。