曖昧トルマリン

graytourmaline

青による白

 オムレツになるはずだったボソボソのスクランブルエッグをフライパンから皿に移し、ネロは盛大に溜息を吐く。
 トーストは半面が焦げ、スープにはコンソメを入れ過ぎた。ほうれん草とグレープフルーツのサラダだけは辛うじてまともに作る事が出来たが千切って和えるだけなので、今のネロには何の慰めにもならない。窓の向こうから聞こえる爽やかな朝を告げる鳥の声が虚しさを引き立て、追加の溜息が思わず溢れた。
 映画を見て、いい雰囲気になって、セックスして、ピロートークをして、仮眠を取って、朝食の席で甘やかす。昨夜から今朝にかけて決行されるはずだったネロの企みは最重要項目をクリアしたものの、割と色々な所でボロが出た。セックスに至るまでの前半部分は、それも自分達らしいとフォロー出来なくもないが、中盤から後半にかけてが壊滅していた。
 取り敢えず猛省すべき点は、煽られて昂ぶった事で有言実行とばかりにを夜通し抱き続けた。これに尽きる。
 なのでピロートークなどする暇がなかったし、仮眠も取っていない。目覚まし時計がけたたましく活動開始時刻を告げるまでヤリ続けるとか脳味噌下半身かよと自己嫌悪に浸りながら作った朝食は、その精神状態が遺憾なく反映された。
 が想像以上にエロくて可愛いのが悪いのだと責任転嫁したい所だが、ベッドの上で最初から最後まで主導権を握り続けていたのはどう考えてもネロである。経験豊富な恋人はかなり初期の段階で駄目になるから止めてくれと静止していた、ような気がする。愛と衝動と性欲に任せて抱いたネロは、昨夜の事だというのに若干記憶が曖昧だった。
「つくづく最低じゃねえか。いや、も結構最低で悪質だけど」
 童貞とカミングアウトこそしなかったが、それでも、見るからにセックスに不慣れな年下の恋人を初手で快楽漬けにしようと目論むのは幾ら半分が悪魔でも人間としてどうなのだろうかと悪態をつく。しかも、下準備は万全だから即突っ込めとは何だ、恋人ではなく娼婦の台詞ではないか。
 セックスはしたいが、セックスだけをしたい訳ではないと説明するべきだった、何で流されてるんだ俺と3度目の溜息と共に反省したネロの名を、柔らかな男の声が呼ぶ。
「態々メシ作ってくれたのか」
「一晩中その……アレだったから、腹減るだろ。いや、アンタは減ってなくても食え」
「ネロの作ってくれた物なら何でも食べるけど」
「けど、何だよ? パンが焦げてるとか、量が多過ぎるとか文句言うんじゃねえぞ」
「いや言わねーよ。じゃなくてさ」
 キッチンの入り口からネロの隣に移動したは、纏ったばかりのボディーソープの香りを微かに放つ白い肌を寄せて判り易く感嘆する。普段と比較すると酷い出来栄えの朝食もサングラスの奥の赤い目には素晴らしい物に映っているようで、口元が緩み目尻が下がっていた。
 体力の回復速度と量が常人離れしている事もあり、腰の痛みも、背中の引っ掻き傷も、互いに散らした歯型や鬱血痕も跡形もなくなるのは残念だったが、その代わりとして首輪とサングラスが滑らかな肌の上での所有者が誰であるかを主張する。普段と比較しても全く変化のない姿を見て、それでもネロは満足していた。
 その間に、どのような時でも紅茶の用意は自分の役目と決めている細く白い手が棚の中を探り、ドリップケトルに水を注ぎ入れながらようやく次の言葉を続ける。
「幸せだなって、思った」
「今更か」
「うん、今更だな。でも、ネロと2人で朝の準備出来るのが実は特別みたいな、生活の一部になってる事がすげー幸せだって思ったんだ。上手く言えねーけど、なんて言えばいいんだろうなホントに、欲しい物ってのは違うし、そうだな、欲しかったって気付けなかった物を真正面からネロが全部与えてくれて……体の中から水みたいに幸福で満たされて、溢れて、なのに、いや、だからなのかもな、苦しい」
 自由気ままに宙を泳ぐ綿毛のような軽口とは違い、饒舌を通り越し焦ったように口数が多くなったの言葉を聞き終えたネロが右腕を細い腰に回して、引き寄せる。今まで以上に全身でネロの事が好きだと告げる唇を塞ぐようにキスをしてやり、触れ合っていた肌や舌から上昇する体温を速く脈打つ鼓動を感じ取った。
 人工呼吸みたいだと、唇を離しながら脳裏に浮かんだ言葉が真っすぐ彼の心に落ちる。昨夜が口にした言葉の意味をネロは今更ながらに理解したのだ。
、脳味噌から脊髄まで全部沈めてやるから、溺れろよ」
 自分を苛んでいる苦痛と懊悩の影に相手を引き摺り込みたい。感情を共有し、感覚に同調して欲しい。がセックスの快楽を与えたがったように、ネロは恋の苦しみを授けたがった。
 今すぐベッドルームに戻り、抱き締めている男が身に付けている全てを取り払って、甘やかしながら際限なく抱き続けたい。そう訴える本能を辛うじて捻じ伏せ、キスや噛み跡が消えた鎖骨に歯を立てた。
 シャワーを浴びたばかりの肌はしっとりと唇に吸い付き、耳元では困惑した声がネロの名を呼んだ。呼ばれた当人だって判っている。時刻は早朝、ネロももこれから仕事という日常が控えている事と、互いにそれをどうでもいい物として片付けられない律儀な価値観の持ち主である事くらいは。
 うっすらと滲み、舞い落ちた雪のように消えた歯型を舌でなぞり、キスをしてから名残惜しげに離れる。壁に掛かった時計を確認して、まだ十分余裕はあるがこれ以上スキンシップを重ねるとどちらかが暴発すると判断したネロは目の前の鼻先を軽く喰み両手で朝食の乗った皿を持つ。
「あのさ、今夜も抱くから。昨日みたいにじゃなくて、今度こそちゃんと」
「あー、うん、期待してるっつーか、ネロに対する色々な感情がヤバい。マジ冗談抜きで溺れる。ただでさえ好きなのに、好き以上の何かで心臓と脳味噌がパンクして破裂する」
「破裂させとけよ、死にはしねえし責任も取る」
 呻くように赤い顔を押さえコンロの前で蹲ったを押し倒したくなった衝動を堪え、湧き上がった性欲を誤魔化すように爪先で恋人を軽く蹴った。ドリップケトルの中の水は既に湯に変化している。
 好意と愛情とセックスの後に恋の自覚をする辺りが実にらしいと思考を切り替えたネロは1人で頷き、皿を置いた後に上げた視線を店の入口に注ぐ。
 隠す気が微塵も感じられない嫌な気配を悟りブルーローズを構えつつ魔力を溜め、扉が微かに開いた瞬間に全ての銃弾を撃ち込んだ。手元にレッドクイーンを装備していなかった事を悔やみながら弾丸を飛ばした方向へ脚を向ければ、そこには悪魔は悪魔でも血に塗れながらも元気に片手を挙げる赤い半魔が居てネロの表情が思い切り歪む。
「朝から萎える髭面見せやがって、せめてきっちり剃るか死んどけよ」
「相変わらず痺れるような……ん? ああ、成程ねえ」
 心底嫌そうに見上げたネロを確認して、朝日を背負っていたダンテが一瞬言葉に詰まった後で、全て得心いったような表情を浮かべた。それがネロにはとてつもなく不吉なもののように思えて扉を閉めようとするが丈夫な足に阻まれる、このまま圧し潰した方がいいと囁く思考より速く、親指と人差指だけ露出した指ぬきグローブが扉に手を掛けた。
「で、坊や」
「うるせえ、話は終わりだクソ髭。昼夜も時計も必要ない生活スタイルのアンタと違って、こっちはまだ朝飯すら済ませてないんだよ」
の具合はどうだった?」
「はあ? 具合も何も、何処も悪かねえよ」
 流石に昨日の今日なので体調の良し悪しは把握している、第一は悪魔を狩る程に屈強ではないが半魔なので病気になど滅多に罹らない。それはクオーターのネロよりも同じくハーフであるダンテの方がよく知っているだろうと怪訝そうに見上げる青い瞳を真っすぐ受けた質問者は、盛大に笑った。
 比喩ではなく腹を抱え、今にも膝から崩れ落ちそうなくらい爆笑するダンテを見てネロはこの男は何を言っているのだと無言で気持ちを表現してから、何を言いたいのか理解出来ない生き物をおもむろに右手で掴み、当然のようにバスターを食らわせる。
 朝の爽やかさなど吹き飛ばす轟音と共に巨体を放り投げるが、それでも笑いのツボを正確に突かれたダンテは声を一切抑えないまま笑い続けた。これ以上相手をしても仕方がない呪いにでも掛かっているのならバージルが何とかするだろう、そうでないのならこの髭は一体何をしに来たのだと愚痴を零しながら扉を閉める寸前、今にも笑死しそうな声が絞り出した言葉を聴覚が拾い上げる。
「いやあ、いいねえ。まだまだ楽しめそうだな、箱入り息子の坊や」
 箱入り息子とは何だ。フォルトゥナとこの土地とは文化や風習が異なるだけなのに。
 胸の内で反論するも再び扉を開けてまでダンテの相手をする気になれなかったネロは後ろ手に鍵を掛け、ペイントが剥げたマグカップを持って現れたに隣の髭の方だと肩を竦めながら訪問者の正体だけ告げた。
「バージルじゃなくてダンテが? あいつがこんな時間に来るのは珍しいな、急用か」
「さあ。何しに来たのかはさっぱりだけど、仕事じゃないのは確かだ。社交辞令にしては面白くないけど、アンタの体調はどうかとは訊かれた」
「俺の体調なんて心配するような、あー、うん」
 言っている途中で伝言ゲームの正解へ辿り着いたにネロはまさか熱でもあるのかと純粋な心配をするが、サングラス越しの笑顔がそれをすぐさま否定する。
「ネロの予想通り下らねー質問だから無視しとけ。それよりミルクティー、飲むだろ」
「……いつものに戻った」
「頑張って切り替えたんだから残念がってくれるなよ」
 近寄って来たネロにマグカップを手渡し、は焦げたトーストを手に取り美味しそうに頬張った。
 そんな笑顔で食べる出来ではないのにと恋に落ちた男を眺めながら優しい色をしたミルクティーに口を付けると想定以上の甘さが舌の上に広がる。メルヘンで心理的な意味合いではなく、物理的に、砂糖の量がいつもよりも多い。
 好みの味から外れた紅茶を前に、それでも自然と笑顔になってしまう様を自覚して、ネロもまた幸せだと静かに零すのだった。