曖昧トルマリン

graytourmaline

燈し火

 スクリーンの中で美しい男女が静かに互いを見つめ合い、軽いキスをして笑いあった後に何処かへ去る。
 濃藍色混じりの黒が地の果てまで広げた夜の、その一片を四方に押し退けていた銀幕がふいに闇に飲まれた。一拍後から下から上へと流れ始める白い文字列を赤い瞳が追おうとするも、周囲の車のヘッドライトが次々と点灯し周波数を合わせたラジオから流れるBGMと思考を纏める為の余韻はエンジン音に掻き消される。
 巨大な回遊魚のように群れなして出口へ向かう車をバックミラーで確認してから、はヘッドレストに後頭部を預け視線を右隣へ移した。そこには、窓枠に肘を置き頬杖をついたまま長い足を組んで、気難しい表情と不満気な感情を隠そうともしないネロが居る。幸い、青い瞳がの方を向いていたので試しに映画の感想を振ってみるも視線は前方へ逸らされた。返事すら、ない。
 恋人が目さえ合わせてくれない理由が、には判らない。正確に述べると、複数個存在するであろう理由の内のどれなのかが、判らなかった。
 壊れかけた蓄音機のように同じフレーズで何度も約束しようやく実現させたネロとの、そしての人生でも初めてのデートは、浪漫が渋い面で厳かに首を横に振り胸の高鳴りが腹を抱えて笑ってしまう程に失敗が続いている。
 今考えてみても、個々の条件に関しては大きな不備もなかったのだ。
 特別な理由もないのに映画鑑賞に拘ったとか、サングラスのお披露目も兼ねた衣服のコーディネートだとか、心境の変化があったとの理由でネロが選んだラブロマンス系の作品を二つ返事で了承したとか、場所が郊外のドライブインシアターだとか。
 しかし、蓋を開けてみればその各々が駄目な方へと連鎖反応した。
 屋外上映に必須の暗闇はファッションショーにかなり不向きであると夕闇の中で気付いた事に始まり、車ごと乗り付けての鑑賞は倍速での流し見も気軽な途中退席も許されず、気晴らしにこれから食事でもと定型的な口説き文句で誘えない場所と終了時間に頭を抱える。
 自分自身の所業を思い返した所で自滅コンボを食らい、の精神ゲージは既に赤く点滅していた。
 映画が始まる直前辺りから、ネロの態度が急に余所余所しくなった理由はつまり、様々な要素の複合型だった。結果、上映中からずっと、何の話題を振っても生返事で、視線は幾度も合うのに尽く無視され、気怠げに鑑賞したかと思えば時折厳しい表情で舌打ちをされている。朝の時点ではデートが楽しみで早く起きてしまったとベッドの上で背中を丸め照れ臭そうに笑っていた可愛らしい少年も、の段取りの悪さに失望したのだろう。彼自身ですら、大の大人だというのにこれはないと思っているのだから。
 日が昇っている時間帯、そして降水確率が100%の日に、ミニシアターを選択していれば防げた事態である。曇天の下ならばサングラスも服装もじっくり観察して貰える、趣味に合わない作品だと判断した時点で機嫌を損ねる前に途中退席が出来る、仕切り直しの食事がてら共通の話題で盛り上がれただろう、余った時間でバイクやガンショップ、ヘッドホンの専門店、ネロ好みのシルバーアクセサリーを扱う店舗を回る事も出来た。
 これまでの人生、特に、どのような失敗も大目に見て貰える若い内に他人と真剣に交際しなかったツケだとは後悔と共に深く反省する。同時に、後悔や反省と自虐や悲観とは別だと割り切れる程度には彼も年を取り世間に揉まれていた。今回は盛大にしくじったが、ネロにデートという行為を楽しんで貰いたいが為に次の約束を何時頃どのように切り出し取り付けるべきかと、やや影を含んだ緩い笑顔の裏で画策する。
 映画と家デート以外の娯楽を提案するか、映画の再チャレンジを申し込むべきか、最優先事項はネロの機嫌とタイミング。まずはそこからだと出発点を決め肩の力を抜き詰めていた息を吐き出すと、何故かネロも足を崩しながら同時に溜息を吐き、更にダッシュボードに向かって突っ伏した。
 その余りにも覇気がない状態に思わずの手が伸びる、幸い、触れた指先からは平熱の体温しか感じられなかったが。
「ネロ、もしかして具合悪かったのか」
 起床時点で何時もよりも若干テンションが高かった以外は普段通りだったが、仕事中に何かあったのか。熱を伴わない吐き気や目眩かと身を乗り出す前にの体を左手が制し、体調は悪くないと上半身を起こしながら唸るように答えた。そうしてからやっと、何時間か振りに会話らしい会話が再開された。
「悪かった」
「ネロ?」
「折角選んだのに、映画、面白くなかったよな。この手のは興味ないって言ってたのに」
 そこまで言いかけてから、ネロは自分が口にした言葉を苦々しく思ったのかこの期に及んでは言い訳で、はぐらかすのかよと呟きながら額に手を当て俯いた。
「酷い態度ばっかり取って、気遣わせてごめん。無視したり、八つ当たりした」
「いや、今回は俺が浮かれ過ぎてたわ。ネロと出掛けるのが大事なんだからさ、映画に拘るべきじゃなかったんだよ」
「え。いや、そうじゃない。違うだろ?」
「違うって、何が。あれ、もしかして、段取りの悪さに苛立ってたんじゃなくて」
 俯いたまま顔を左に向け何を言っているのか理解出来ないと表情で返すネロに、は予想していた理由が全て外れていた事を知る。
 そもそもネロという少年は口調こそ荒いが根は誠実で善良だ、その程度の些細な事で臍を曲げ恋人に当たり散らすような子ではないと念頭に置かなければならなかったと思い至り、白髪頭も力なくハンドルの上に乗った。
 今の会話でネロもの思考を汲んだのか、再度同じように項垂れる。2人揃って何をしているのだと声を掛けてくるような人間は、幸い周囲に居ない。次々と後方へ流れて行くガス臭い鉄の魚達が発する白やオレンジの明かりを浴びながら沈黙を通していた恋人達は、車の中でよかったと頷き合い、やがてどちらともなく小刻みに肩を揺らし始め、終いには喉を引き攣らせるようにして笑い出した。
「あーもう、マジかよ、何だそれ。じゃあ、おっさん開き直るぞ。次のデートも映画な。降水確率100%の真昼に決行」
「ねえよ。ここまで来たら俺かかが絶対呪われてるからシアターは潔く諦めるべきだろ。コメディ系レンタルして家で見るぞ、ナチョスとバケツアイスをセットにしてさ」
「家デートは大歓迎だけどツマミのチョイスには異議唱えておくわ。おっさんの胃、そんな重いの入んねーから」
「入れろよ。俺が食わせてやるから」
「そこまでサービスしてくれるのか、ネロってば超優しいじゃん。じゃあコメディじゃなく次もデートムービー選んで、恋人っぽい雰囲気作ってやろうか?」
 軽口の応酬の延長線、冗談じみて放たれた言葉にネロが急停止して頬に朱を差す。
 その、あまりにも判り易く表面に出た期待には一瞬呆気にとられたが、次の瞬間には戯れに酔ったような笑みを滲ませ、行方不明になったばかりの理由の端を絡め取った指先で、ネロの肩、首筋、頬、唇を辿りながら触れ、名残惜しそうに、そして煽るように離した。
 耳の先から首筋まで羞恥の色に染まりながらも、物足りなさそうに吐息を漏らすネロの顎を日に焼けない白い指が掬う。細い腰がシートから浮き助手席の影に重なりあうと、唇を触れ合わせるだけなのに鼻に抜けるような甘ったるい声が車内に散った。
「口、開けろ」
 一度距離を置き強い口調で言えば、熱に浮かされたネロは素直に従う。
 目元を濡らし甘く強い酒に酔ったようにも見える格好も、柔らかそうな舌を白い歯の間からチラ付かせる姿も目に毒だ。無垢な幼子に手を掛ける悪い大人の気分だとは内心で独りごちながらシートに膝を立てて身を乗り出し、舌先で唇をゆっくりとなぞり、蕩けたままの舌を控えめに舐め始めた。
 反応らしい反応も返せず弛緩した身体でされるがままの初心なネロを見ると、愛おしさが情欲を引き連れて腹の底から迫り上がり本能と理性を同時に破壊し始める。衝動に任せ絡めて、吸って、噛んで、行く所まで行けと内に潜んでいた獣が暴れるが、人間と悪魔の血肉がそれぞれの思惑から創造した強固な鎖で留めた。程なくして舌を離し、再度唇へ落とした軽いキスで終了の合図を送る。
 全身をシートに預けて、愚図る赤子のように呻くネロが涙目のまま恨みがましく恋人を見上げる。何故中途半端に止めたのか、気持ちいい行為の更に先を期待したのに、という非難を今度は正確に汲み取ったが銀色の髪を軽く撫で、暗がりの中で笑った。
「続きはベッドで、な」
「……余裕過ぎてムカつく。初めては、俺から誘いたかったのに」
 互いに好みから外れるラブロマンスを選び夜通し脳内でシミュレートしたのに何一つ生かせないまま流されたと小声で告白するネロは、如何にも初心で子供らしい思考に反して未熟な青年の色気を含んでいる。狩人でもあり妖精でもあるネロ特有のアンバランスさを体験して来たも、今回は特に強烈だと評価せざるを得ない。
 催促通り次のデートは家にしないとこちらの身が持たないと心に刻み、厚く広い肩を抱き寄せてから頬に、額にと日常的に繰り返されている方のキスを降らせる。それで落ち着ける程度に当人は大人だったが、ネロは未だ抜け出せず帰って来られないようで切なげな表情を浮かべ長いキスを唇へ強請った。
「なあ、ネロ。頼むからさ、そんな可愛らしいお誘いをしてくれるな。おっさん、これから運転しなきゃならねーのに事故りそう」
「キスしてくれたら、家までは我慢する。それと可愛いとか言うな」
「あー……せめてシャワー浴び終わるまで、堪えてくれるか?」
 悪魔を屠る狩人に似つかわしくない形容詞の方は訂正しない恋人を見てネロはやや不満そうな感情を漏らしたが、欲の燻りが治まらない体が早々に妥協したのか運転席側へ身を乗り出して首輪を掴み、残ったもう一方の提案に同意を示す。
 飢えた大型のネコ科に喉笛を食い千切られる幻覚をサングラス越しに見ながらは顔を上げ、明日の降水確率を読み上げ始めるカーラジオを切り、キスに不慣れな唇を静かに受け入れた。