曖昧トルマリン

graytourmaline

垣間見せる

 真昼の陽光に温められた風に乗った賑やかな声が窓硝子を叩き、カーテンの隙間からの耳にまで届いた。久しく静かだった隣の店舗が俄に騒がしくなっている。
 懐かしさこそ覚えないが慣れ親しんだ喧騒に、恋人と弟の方の友人の帰還を知ったはしかし、来客への対応を乱暴に切り上げてまで会いに行く程に客商売を舐めきってはいなかった。
 今日は閉店直前まで予約で埋まっている、脳内のスケジュール帳を捲りながら目の前の皮膚の消毒を行っていると客側はネロとの関係を知っていたのか相変わらず恋人そっちのけの仕事人間だと揶揄された。同棲している恋人が数日振りに帰って来て、しかも一番に会いに来てくれない二重苦に何故平静で居られるのだと捲し立てられるも、仕事を放り出して会いに行って喜んでくれる子ではないと厚みのない肩を竦めながら返す。
「そーゆーの、判ってくれる相手なんだよ」
「危機感が足りない、そうやって悠長な事ばかり言ってるから毎回毎回自然消滅で別れる羽目になるんだ。今の子とは長く続けられているからって調子に乗るな、何時までもお前に合わせてくれると思うなよ」
 職業も性別も年齢も異なる客達と同じような遣り取りを数回行う間に外の空気はすっかり暖かさを失い、穏やかだが容赦なく白い肌を焼く陽光は雑然としたビル群の向こう側へ姿を隠してしまっていた。
 太陽の代わりとばかりに夜の間中灯っているネオンの光を浴びながら本日最後の客を見送り背伸びをしていると、隣の事務所の扉がそっと開き愛しい銀色が窺うように顔を出す。
 恋人に対する恥じらいというよりは、大好きな兄に構って貰えるか探りを入れる幼い弟のような態度にの胸の内はいっぱいになり、喉が乾いている訳でもないのに名前を呼ぶ声が掠れた。
「犬かよ。嬉しそうな顔しやがって」
「似たよーなもんだろ。おかえりな、ネロ」
「ただいま」
 呆れ顔で犬呼ばわりする割に行動を起こしたのは飼い主の方で、大股でに近付くと青白く透き通るような鋭い指先で赤い首輪を引っ掛け、速度を緩めずにスタジオへ突入する。その流れのまま細い体を壁やソファに押し付けてキスに雪崩込む、とならないのが実にネロらしいとひっそり笑い、首輪を掴んだまま不貞腐れるように俯き次の行動に移せない子供の頬や額に唇を寄せた。
 碌な色気もないキスは恋人と呼ぶよりも親密な家族だなと考える脳裏で、けれど目の前のネロと隣の双子が身を寄せ合い啄むようなキスをする様子を想像出来ずにいると、気が逸れた聴覚が蝶番が軋む音を拾い上げる。
 先程見送った客が忘れ物でもしたのかと顔を上げようとする前に、扉側に体を向けていたネロの怒号が部屋中に響き渡った。
「何で来てんだよ!? 見せもんじゃねえぞ!」
 緩く抱いていたを押し退けて向かった先には見覚えのある鳥と見覚えのない少女が悪戯っ子のような顔で屈み込んでおり、覗き見を諦めたのか扉を盛大に開け放ってヤニさがった笑みを浮かべネロを冷やかしている。
 鳥で悪魔なグリフォンは兎も角、10代も前半にしか見えないただの少女を深夜と呼んでいい時間帯に外に放置するのは得策ではないと年齢相応の考えに至った男は両手を叩いて一時的な注目を集めた。
「取り敢えず全員、中に入っとけ。口論はそれからな」
「入れる理由も必要もねえよ、今すぐ隣に帰らせる」
「おいおい、ご挨拶だな! 恋人の面くらい拝ませろよ、私が見ても減りゃしないだろ」
「減る」
 不合理で理不尽ながら有無を言わせない断言と屈強なネロの肉体を少女は品が良いとはいえない笑顔のまま細腕一本で押し退ける。
 命の関わる理由か悪魔の擬態でもない限り女子供には手を挙げられないネロが苦々しい表情を浮かべ、少女の次に侵入して来たグリフォンの嘴を右手で掴んだかと思うと大きく振りかぶり、スラム街へ向かって怒りの大遠投を行った。ネオンの隙間を高速飛行しなから瞬時に消えた悪魔の尻を眺め終わったは、まあグリフォンなら死なないだろうと自分を納得させスタジオの扉を締め念の為に鍵もかける。
 その間に少女はというと自分の居場所を早々に定めたのか、来客用のソファのど真ん中を占領し物珍しげにスタジオの内装を見回した。
 眼鏡を掛けた愛嬌のある顔が上下左右に振れる度、黒い癖毛がふわふわと宙を漂い、その仕草に合わせるように褐色の幼い両脚がぱたぱたと揺れる。清潔な服装に髪や肌艶は良好で行動的だが大人しい、どこからどう見ても堅気の少女だ、ネロとの出会いも関係性が推測出来ないと赤い瞳が白い少年を眺めると、諦めたとばかりに深く長い溜息を吐いていた。
 肺の空気を出し切り新たな空気を吸い込んだ青い瞳が、自身よりも白い男を見つめる。
、メシ食ったか」
「あー。朝は」
「朝だけかよ、昼と夜は?」
「……昼はシリアルバー」
「夜はまだなんだな、昼に何か食べてただけ大分マシか。大体予想通りだからそんな顔するな、怒っちゃいねえよ。店のスケジュール、朝から晩まで全部埋まってたから忙しかったんだろ?」
「そうだけど、うん? って事はネロ、一度こっちに来たのか」
 客層と場所柄、予約以外にも飛び込みやキャンセルが多く変動が激しい店のスケジュールを数日間留守にしていたネロが知るには、店内にあるスタジオの予定表を確認するしか方法がない。が確信を持った確認を行うと、当たり前だという表情と共に恋人という立場に甘んじて仕事の邪魔はしたくないと続けられる。
 だから言っただろう俺の恋人はこんなに出来た子なんだと今日来店した客全員に力説したくなった衝動を抑え、口元を押さえながら俯き顔を赤くしながら呻くように呟いた。
「ネロのそーゆー所もホント好き」
「知ってる。いいから座ってろ、腹に溜まるもの作ってやるから」
「いいのか? ネロだって出張帰りで疲れてるだろ」
「俺の体力見縊り過ぎだ、と一緒にするな」
 普段通りの会話を続けようとした所、割って入った幼い咳払いに2人の視線がソファに向く。見れば、応対を放置された少女が腕を組み、紹介くらいしろと態度で語っていた。仕方なく、ネロは本日2度目の盛大な溜息を吐いた。
、こいつはニコだ。フルネームは忘れた、アンタも覚えなくてい」
「ニィロゥ、あんまりな態度だと私にだって考えがあるぞ」
「へえ、言ってみろよ」
「後でキリエにチクる」
 ニコと呼ばれる少女の放った言葉は会心の一撃だったのだろう。途端に言葉に詰まり、冷や汗を流したネロをフォローする為には広い背中をキッチンへ向かうよう押し、自身は人好きする笑みを浮かべてニコの斜向いに座った。
「お客さんを放置して悪かった、久し振りの逢瀬だから年甲斐もなく浮かれちまったな。ネロがどうこうじゃなく年上の俺が気遣うべき事だから、キリエさんに告げ口するのは考え直して貰えると大変有り難いんだけど、おっさんお顔を立ててくれないかな、お嬢さん」
「お嬢さんじゃない、ニコレッタ・ゴールドスタインだ。そっちの名前は?」
、この店のオーナーでご覧の通りネロの恋人。って呼んでくれ、ミス・ゴールドスタイン」
 握手しようと差し出した手をまじまじと見られ、やがて何事かに満足してから小さく柔らかい手が握り返す。一体何だろうと首を傾げるに向かって、ニコは医者じゃないなと口に出した。
「生き物を治してる手じゃない、物を作る人間の手だ。ここ、何の店なんだ」
「タトゥースタジオ、興味ある?」
「興味ならある、でも入れ時は今じゃないな。私はまだ身長も伸びるし、女の体になるまで何年か必要になる。成長途中の素材を加工するなんて芸術に対する冒涜だ」
 彼女自身も何らかの物を作り出す将来を夢見ている風な言葉には顎を摘み、自己紹介されたばかりのファミリーネームを口の中で呟きながら脳味噌に収めてある来客資料をひっくり返す。引き篭もりなだけで人見知りではない男なので、スラムでそこそこ生きていける程度の人脈と知識は当然兼ね備えていた。
 数秒してから浮かび上がった単語をなんとなく口にする。相手の琴線に触れればそれで十分だという、楽観的な考えの元ではあったが。
「ガンスミスだったかな、かなり凄腕の。45口径の芸術家とか二つ名の女性で」
「ば、ば、祖母ちゃんの事知ってるのか!」
「祖母って事はお孫さんか。思い出した、ニール・ゴールドスタインだ。彼女有名人だから名前と腕前くらいはな。俺自身は銃に縁がないけど、あれ? 記憶違いじゃなかったら、ダンテの銃って」
「エ、エボニーと、ア、ア、アイボリーだな! 祖母ちゃんが作ったんだぞ、私も、初めて見て、う、美し過ぎるからここまで付いて来たんだ!」
「付いて来たって、ミス・ゴールドスタインは」
「仕方ないな、ニコと呼んでいいぞ! は祖母ちゃんの事を知ってたから、特別に許してやる」
「ありがと。ニコは、これからこんなスラムの掃き溜めで暮らすのか?」
「そんな訳ないだろ」
 未成年の少女なのだから流石に止めとけと大人として忠告しようとしたをネロが遮り、ブロッコリーとツナのパスタを山のように盛った皿をテーブルの上に置いた。
 顎で指図すると従順に食べ始める恋人を横目に、自分はコーラを飲みながらニコにはホットミルクを与え、客間貸してやるからそれを飲んだらシャワー浴びて寝ろと指示を出す。
「ガキ扱いするなよ、ネロの癖に横暴だ」
「俺の癖にってどういう意味だ。いいから寝ろ、明日の昼には『Rock's Guns & Ammo』に送り届ける約束なんだから」
「甘く見るなよ、徹夜くらい余裕だっての」
「口の減らないお嬢ちゃんだな」
 散々ダンテに坊や扱いされているネロの口から飛び出した言葉を微笑ましく思いながら水を飲み、老婆心からからも助言を行った。色々無精の男でも、そのくらいの良識と常識は身に付けている。
「幾ら若くても徹夜は肌に悪いぜ、ニコ。未発達の素材に手を付けるのが冒涜なら、態と劣化させるのだって十分な冒涜だ」
 自身は性格と体質に合っているから続けている職に過ぎず発想や技術の才能が溢れるアーティストでもないのだが、初対面で素性を知らないニコにとって、彼の言葉はそれなりに価値を帯びるものだったらしい。マグカップを両手に持ったまましばらく唸り、やがて観念したのか小声で判ったよと返事をした。
 潔いとはいえないものの問題なくその場は収まったが、そもそもニコがどのような経緯でこのようなスラムにまでやって来たのかと今まで置き去りにしていた素朴な疑問をが口にすると、ネロは遠出した理由から簡潔に話し始める。
 なんでも、最初はVの一言だったという。
 彼の世界にもニコという少女、この場合は女性が存在しており、そのフルネームを聞いたダンテがやらなければいけない事が出来たとモリソンに居場所を突き止めて貰ったらしい。つい先日、ダンテとネロに情報を売ったと世間話をした事を会話の中で思い出したは、黙って素直に頷きながら次の説明に耳を傾ける。
 本来ならばダンテだけの用だったのにネロが付き合う事となったのは、これもまたVの一言が発端らしい。聞くと、彼の世界のニコはレッドクイーンの整備もしていたという、かなり真っ当で重要なアドバイスが理由だった。
 レッドクイーン、そして量産型のカリバーンのような機械仕掛けの剣は一般常識的な剣とはかけ離れた性能を持っており、ブルーローズを自作したネロでさえ騙し騙しの調整で扱っていた代物だとはも聞いていた。
 教団壊滅後もフォルトゥナは土地の特徴を完全に失う事はなく、どこからともなく悪魔が度々出現する為、騎士団の僅かな生き残りで新たに結成された自警団も残されたカリバーンを今も使っている。負の遺産となった武器を使い続ける事に抵抗がある団員達曰く、その内に全く別の武器へ移行するつもりだそうだが、悪魔に対抗出来る武器が昨日今日で発見や開発される訳もない。悪魔の特徴を多少知る末端の教団騎士すら一握りしか残っておらず、況してや技術局の生き残りなど、といった有様なのだ。
 だから、異世界ながら未来の人間であるVの齎した情報はネロだけではなくフォルトゥナにとっても一条の光明だった。
「そして、その光明は期待通り希望の光になったとさ。普段のメンテナンスから何から全部マニュアルに書き出してやった私をもっと讃えてもいいんだぞ」
「それに関しては感謝してる。今後、俺も自警団も世話になる事も含めてな。だからダンテの魔具が見たいって我儘にも賛成してやっただろ」
「じゃあ何に関しては感謝してないんだよ」
「キリエの前でカリバーンの持ち主を下品な言葉で罵倒しようとしたのは何処の誰だよ」
「じゃあ何だ、キリエの……いや、キリエの前では問題だな。うん、大問題だ。ネロも、キリエさえ居なければ口が悪くても何も言わなかったからな」
 電話越しにキリエとやり取りした事があるも、声と話し方だけで楚々とした慈母を思い描いた女性は完全に正しかったようで、軽く反発しあっていた2人の意見が急に合致する。
 白い妖精さんと褐色の小動物のじゃれ合いを眺め終わり、皿の上のパスタも半分程胃袋へ送ったは水を飲みながら大方の流れを掴む。
 彼自身の知らない所で色々な事件が起こっているのは何時もの事だ、何せ、は暴力沙汰とは無縁の一介のタトゥースタジオ経営者に過ぎないのだから。
「そっか、帰りが伸びたのは国跨いで里帰りしてたのか」
 本来なら国内で完結したはずの用事なのでパスポート辺りはどうしたのだろうと疑問が湧いたが、そこはダンテとネロなのでどうにかしたのだろう。抱いたものを自己完結させて再びフォークを手にすると、コーラを飲み干したネロが悪戯っぽい口調で囁いた。
「予定より遅くなって悪かったな。俺が居なくて寂しかったか?」
「おっさんに言う台詞じゃねーだろ、それ」
「はあ? おっさんじゃなくて恋人に言ってんだよ」
 ネロの声色と口調で対応を間違えたらしいとは気付いた。
 キレ気味に右手で頭蓋を掴まれると、少女の声が何事かを口にする。残念だが、血流に異常が生じている最中なので意味は拾えなかったが、多分、本当に恋人同士なのかと疑問を呈したのだろうと予想した。
「もう一度訊くぞ。、俺が居なくて寂しかったか?」
「お前それ質問じゃなく脅迫」
「うるせえ、ニコ。とはこれが普通のコミュニケーションなんだよ」
「おい、こんな男とは別れた方が……嘘だろ、笑ってやがる」
 久々に自分へ向けられたネロのバイオレンスさに苦笑している最中、更にニコから何か言われたような気がしただったが、流石に痴話喧嘩で脳味噌をぶち撒けられるのは勘弁と正しい優先順位を脳内で付け、更に正しい言葉を恋人へ送る。
「寂しかねーよ。けど、ネロから電話掛かって来た時は嬉しかったぜ」
 恋をしている男の顔で正直に答えるとネロの疑念も解消されたのか、やや過剰な愛情から開放され荷物のように担がれた。まだ夕食のような夜食を食べている途中だが寝室にでも行くのだろうか、行った所でキス以上の事は仕掛けて来れないリードが必要なチェリーなのにと靄のように考えている中、ネロはバスルームと客間の場所をニコへ説明すると堂々とした足取りで歩き出した。
 傍から見ればこれから致すようにしか見えないと夜の窓の映る白い青年と男を観察していると、視界が水平方向に180度反転した。
「いいか、ニコ。それ飲んだらシャワー浴びて良い子でおネンネしろ。余計な事はするな、特に、俺との寝室には絶対に来るな」
「頼まれたって行くかよ」
 会話の後に再び反転したの視界に映った少女の表情は、強気な口調とは裏腹にドン引きした人間のそれであった。