曖昧トルマリン

graytourmaline

小作り座金

 愛してる、なんて台詞は相手の機嫌を取る為だけに繰り出される面倒な単語だとは思っていた。だというのに、恋愛オンチな自分がまさかその言葉を口にした後に機嫌よく受話器を置く日が来るとは、と芯の折れた鉛筆を指先で弄りながら窓の外を眺める。
 欠けた月が夕焼けを追うようにして沈む時間帯だからだろう、路地の向こうでは自己主張が強い色のネオンがそこら中で輝き、人間の欲を満たす為の店が営業中である事を大々的に宣伝し始めていた。普段は隣の店舗から垂れ流されている物騒な気配が今日に限って皆無である事も手伝ってか、道行く人影の足取りが若干軽いようにも見える。
「どっちかってーと、浮ついてんのは俺自身か」
 恋人であるネロが仕事とは別の都合で遠方まで足を伸ばした。今日の夕方過ぎには出先から帰る予定と聞かされていたが、ダンテと共に居る為だからなのか、それとも別の原因があるのか、兎も角、帰宅が延びてしまったらしい。悪魔絡みのトラブルではないと執拗に念押しされたので、命の心配をする必要はないだろう。
 元来、という男は他人から1日2日放置されたからといって寂しがるような乙女思考は一切持ち合わせていなかった。今もその心理状態が植え付けられ根を張った訳ではないが、それでもたった1本の電話から湧き出る感情が面倒臭いから嬉しいへと変化した事は驚きに値する。
 人間、意図せずとも変わろうと思えば変われるものだと頷き、さてこちらはどうしようかと明かりが確認出来る隣の事務所を見て頭を捻る。
 つい先日ネロに拾われ、複雑な過程はさておいてパラレルワールドからやって来たと判明した男。バージルの人格と判明したVという青年は、きっと電話番をしつつ普段通り涼し気な表情のままナントカという本のページに視線を落とし、趣味の世界に没頭しているに違いない。実際にそのような姿を見た事は一度としてないが、この男はネロ経由でVの生活習慣を知っていた。
 顔色はよりも青白く、健康的とは口が裂けても言えないが、初対面で見せられた身体崩壊レベルの体調不良っぷりを考えると大分まともと評せるまでには回復しているらしい。そのVと、必ず夕食を共にするようにとネロからお達しがあった。
 Vもまたと同様に食欲が壊滅し平然と何食も抜くのかどうかは付き合いが浅い為に知りようがないが、恋人から直々に食事をしろと言われたのだから従う他ない。怒ったネロが怖いからだとか、親子の年齢差がある子供に注意を食らった情けなさからではない。彼は無精者ではあるものの、可愛い恋人が口にしてくれた心配を無下にするような駄目人間ではなかった。
 とはいえ、気持ちがどれだけ溢れようと決意と精神力で料理の腕が上がるはずもない。このような時の為にネロがあらかじめ確保してくれていたラビオリを冷凍庫からレンジに移動させ、レンジから隣の事務所へと缶ビールと共に更に移動させる。
「って、何だ。モリソンじゃねーか」
 盛大に湯気を上げるプラスチックの皿を手にDevil May Cryを訪れたが真っ先に見た人間は、黒髪ではなくブロンドの白人男性だった。
 厄介事と荒事を収める仲介屋とタトゥースタジオの経営者という立場なので仕事上での付き合いは全くないが、ダンテやバージルを通じて顔見知りと呼べる程度の認識はあり、偶に裏社会の情報交換をする仲でもある。
か、どうしたんだ。こんな時間に」
「Vとメシ食っとけってネロに言われた」
「態々、出張先からか?」
「羨ましーだろ」
「愛し合っているのか、大人として信用されていないと見るべきか」
 挨拶代わりの軽口の応酬を終え、湯気を吹き上げるプラスチックの皿を裸の女性の写真が載った猥雑な雑誌の上へ置いたはサングラスに隠れた目線でVに挨拶する。ネロから聞いた通り、彼は小難しそうな本を片手に椅子へ深く座り、軽く目を伏せて挨拶を返した。
 アイコンタクトと呼ぶには他人行儀過ぎ、まるで半野生の動物同士が行う挨拶だとモリソンが思い描いた事を、2人は知る由もない。
 その片方の白い色が軽くて薄い缶ビールの飲み口を開けながら笑顔を振りまいた。
「そこは羨ましがれよ。で、モリソンこそどーした、急ぎの仕事ならレディかトリッシュ辺りに掛け合った方がいいぜ、今日はネロも双子も出払ってるからな」
「知っているさ、バージルに仕事を回して、ダンテとネロに必要な情報をくれてやったのは俺だ。そしてお嬢様方も今は遠方に出払っている」
「じゃあ、アレか。Vに依頼か?」
 グリフォンとシャドウともう1体が居ると以前に説明されたので悪魔狩り自体は可能であるが、仕事が入ったのならば温めた2人分の冷凍食品はどうしようかと白い頭の中が回転を始める。
 そして結局、どうにかする為にモリソンへ差し出した赤い缶は、何故かそのままVの座る大きなデスクへと誘導された。そこには、一掴み程の紙幣を脇に避け、本のページを捲ろうとしているVが居た。
「もう終わったよ。少し物騒な曰く付きの品を鑑定して貰った」
「そーなんだ」
「今日の夜までにとリミットを切られてね、俺はこれで失礼するよ」
「そりゃ大変だ。引き止めて悪かったな」
 荷物を纏めたモリソンは、Vが居てくれて助かった、酒と食事は次の機会に取っておくと双方に挨拶を済ませ、焦りが全く見て取れない仕草で事務所を後にする。閉まる扉の向こうに消える背広姿を眺めながら、どれだけの時間が残されているのか判らないが、たとえ事態が逼迫していようとも見苦しい振る舞いをしないからこそ信頼されているんだよなとは心の中で頷いた。
 満足する部分まで読み終えたのか本を片手で閉じたVは、黙したままラビオリを手繰り寄せ音を発する事もなく静かに食事を始める。自分とは違い食には貪欲なようだ、同一人物だけあり細かい仕草がバージルに似ていると複数の点に気付いたが、これも心の中でのみ呟く事にした。
 夜の中にゆっくりと沈むような静寂に僅かな咀嚼音が交じるだけの、この事務所にしては珍しいとも言える時間がしばらく続いた後、先に音を形にしたのはVだった。
「俺が知るモリソンは、黒人だった」
「へえ、世界が違えば人種も違うんだな。そっちのモリソンはどーだった? やっぱ面倒見のいい良い奴だったか」
「さあな。仕事以外で話す事もない、短い付き合いだった」
 そこからどのように話を広げるべきか、何故そこで終わるような話を振ったのか、赤い瞳がサングラスの中で彷徨い、言葉を探す。その時間をVが埋めた。
「伸ばされた手が届き、墜ちる事なく共に生き延びた。悪夢が生まれるきっかけを失った平坦な世界。けれど、それだけが原因ではないのだろう。フェザーウェイトが鉄の舟を沈める事もある」
「Vは俺が小難しい表現されてすんなり理解出来るタイプだと思うか?」
「いいや。だが、比喩ですらない」
 空になったプレートを前に本を開き、鍋敷き代わりの雑誌ごとゴミを屑籠へ放り込むVを見てダンテが騒ぐぞと軽口を叩くと、望む所だとでもいうように唇を歪めて邪悪な笑みを向けられる。バージルとは違う、V特有の笑みだ。
「美味かった」
「そーかい。そりゃ良かった」
 VがVである片鱗を見せ付けられた事で、の中には安堵が広がった。
 既に半分程無くなっている缶を掲げた細い腕に、同じく細い腕が今更ながら乾杯をする。Vの持った缶の口から、白い泡が弾け飛んだ。