曖昧トルマリン

graytourmaline

≒-1

 スラムでも稀な喧騒がようやく収まった昼過ぎ、幾枚かの紙幣と引き換えに受け取った温かい箱を両腕に抱え、はダクトテープとビニールシートという何時もと変わらない修理跡を背に危なっかしい足取りで隣接する店舗へ向かった。
 あの後、息子と弟の喧嘩中にバージルは意識と冷静さを取り戻し、異世界の自分を殺す為にはより精度の高い情報が必要だという正気でも狂気だとしても空恐ろしい宣言と共に騒ぎの仲裁を行い、現在は関係者一同を掻き集め事務所で作戦会議めいた何かを始めている。
 当事者ではないは暴走原因がパラレルワールドのバージルがネロの右腕を切り落とした事に拠るものとだけ簡易説明を受けたものの、詳細を聞いても理解が全く及ばない為、店の片付けの為に離脱し、デリバリーの中華料理が届くまでの間は普段通り地味な書類仕事に精を出していた。そのように呑気にしていられるのは、どれだけ同一部分があろうとも向こうの世界のネロと自分は違う存在だと年若い恋人が胸を張り、一切の不安を抱いていなかったから、という理由もある。
 居ても居なくても同じならば、居ない方が良い。現在の店の状況と、半魔達から繰り出される単語が理解出来ない自分自身の脳味噌の構造を正確に把握しているにしてみれば、別行動は当然の選択肢であった。
 クロノスの鍵を右腕に所持しているネロが放ったマキシマムベッドが時空神像を吹っ飛ばしグリムグリップに直撃した事で連鎖的に時空が歪み一時的に魔界と繋がったと考えるのが妥当だろう、とバージルから手短に説明されたが、が辛うじて認知出来たのはネロが時空を歪めてVと呼ばれる青年を呼ぶきっかけを作った、程度でしかない。そもそも彼は出生を除けば、その手の超常現象とは無縁の一般人に過ぎないのだ。
「よお、訳判んねえ言葉が飛び交う小難しい話は終わったか」
「急かすなよ、今やっと三馬鹿が勝ち目のない戦いに挑んで負けた話が……おい、ピザじゃないのか」
「ネロがピザより肉食いてえって言ったから。偶にならフランチャイズのチャイニーズフードも悪かねーだろ?」
 米や麺の上に味付けの濃い肉が乗った箱をテーブルの上に並べたをネロが隣に座らせ、自然な仕草で腰に手を回す。
 羽を休めていたグリフォンがお熱い事でと茶化すが、恋人を引き止めた当人は大真面目な面持ちで表情筋を歪め、そうじゃねえと返した。
は俺が見張ってないと平気で食事抜こうとするんだよ。ほら見ろ、何だよこの箱の中身は」
「あーっと、確か、ブラウンライスとグリルチキンのマンダリンソースの……」
「その続きも聞いてやるから言ってみろ」
「……量控えめです」
「この量でしかも米と肉のみとか巫山戯てんのか、ミックスベジタブルも頼んだから野菜も食え。ダンテ、アンタもだ」
「坊やだって肉が食べたいんだろ」
「だからって肉だけ食べる訳ないだろ、バージル見習って偏食を直せ。Vは、パン粥くらいなら食べられそうか」
「いや、俺は」
「まあ体調悪そうだから無理してまで食わなくてもいいけどさ、何かしら腹に入れておいた方がいいだろ。ちょっと待ってろよ、すぐ作って来る。、パンとミルク貰うぜ」
 とダンテの箱の上に茹でたブロッコリーや人参を投下し、Vの困惑と拒絶の言葉を無視して立ち上がったネロの背中を4人と1羽の視線が見送る。
「気が強いっつーか、世話焼きな所はこっちの世界でも変わんねェな。いい大人を3人纏めて尻に敷くとかよ」
「丸焼きにして食うぞ、チキン野郎」
「肥え太った九官鳥が。何故今の会話で俺まで入れられているのか説明しろ」
 グリフォンの評価を不服として抗議する双子とは裏腹に、は栄養素があるのかないのか判らない程に柔らかく茹でられたブロッコリーを黙々と咀嚼しながら正面のVを眺める。
 乾いた大地のようだった肌は、ハリや潤いが戻ったとは言えないもののごく普通の皮膚となっていた。それは別にいい。しかし、その皮膚の上を這うようにして描かれていた黒に違和感を覚える。出会った時と柄が違う。
 食事もそこそこに勃発した口論をBGMに、2人の間に長い沈黙が下りる。サングラス越しとはいえ喉元、肩、指の先まで観察される空気に嫌気が差したのか、大分経って、ようやくVが口を開いた。
「何か言いたい事でもあるのか」
「ジロジロ見て悪かった。職業柄、タトゥーがどーしても気になってな」
「そうか、スタジオの経営者だと言っていたな」
 グリフォンとのやり取りは聞こえていたらしく、Vは今までの視線とその会話で全て納得したのか軽く腕を振って黒い粒子の塊を出現させる。霧のような存在から意志を持ったように集結したそれが一瞬の内にシャドウとなり、も仕掛けを察した。
「成程ねえ。そーゆー感じか」
「そうだ」
「あれ、何お2人さん。俺達が余所事してる間になんだかいい雰囲気じゃねェの。おい、ネロ早くこっちに来い! 恋人が浮気して早速修羅場作ってるぜ!」
「馬鹿じゃねえの? がそんな事するかよ」
 出会ったばかりの悪魔に唆され頭から信じるような関係は構築していないと戯言を切り捨てたネロに、グリフォンは練乳に浸された糖蜜の塊を飲み込まされたような表情を器用に浮かべた後で、ぐったりとした様子で羽を広げた。
 ただそれでもお喋り癖は治らないのか、目の前にジャムが添えられたパン粥の深皿を置かれたVに対して、Vチャン離乳食おいちそうでちゅねと力ない声で揶揄する位の気力は残っていた。尤も、耳聡く拾い上げたシャドウに踏み潰され、瀕死の蛙のような鳴き声を上げる羽目になったが。
「猫ちゃん、ちょ、ちょっとタンマ。つうか、強ち冗談じゃなくねえか」
「俺が生まれて間もない嬰児なら同時に生まれたお前もそうなるが、給餌が必要なら遠回しにではなくそう言えばいい」
「OK、今のは失言だ、撤回する。だから猫ちゃんホント重いから」
「いい加減、黙っていろ」
 話が進まないと2匹を消したVの皮膚の模様が再度変化し、が感心したような表情を浮かべると、隣に座っていたネロも自分が居ない間に何が起こったのか把握したようで矢張り下らない冗談だったと肩を竦めた。
 仲睦まじい息子夫婦を横目に、弟と口論を繰り広げながらも早々に食事を終えたバージルが睨むような目付きでVに視線をやった。途端に、弛緩していた空気が張り詰める。
「馬鹿話が済んだのならば、話を戻すぞ。V、ユリゼンとの融合だか回帰だかを果たした貴様が何故存在しているんだ」
「今も俺が俺として存在出来ている理由は判らない。ただ確かに言える事は、俺には戻るべき場所など存在せず、拒絶された。それだけだ」
 抽象的過ぎるVの言葉を聞いた者の中で、内心首を傾げたのはだけだった。しかし、幾ら軽口を叩く男でも空気くらいは読む。
 保たれた短い沈黙の中で、始めに口を開いたのはバージルだった。
「貴様は人格か。Vという人間が獲得した」
「ああ、そうだ。意志も、意識も、記憶も、脆い体でさえも、人間としてのほぼ全てが元の居場所へと戻った。だが抜け殻の残り滓だろうと、俺は、俺だ。俺はVでありバージルではなく、バージルもまたVではない。それ故に俺はクリフォトの頂上で、魔界で、取り残され彷徨っていた」
 一気に重苦しい空気を纏ったVに対し、銀と白髪の男達は生真面目な表情を浮かべたものの同情じみた視線を送るような事はなかった。若干1名、話の内容に付いていけないが故の顔であったが、それでも場の空気を重んじる程度には気遣いが出来る男だった。
 短い沈黙を挟み、脳内で仮説を組み上げ終わったバージルが王族のような横柄な態度で軽く腕組みをする。
「話を聞く限り、その場にはそちらのネロと、ネロの右腕も存在して居たんだな。もしもこちらのネロと同じような道を歩んでいるのならば、以前取り込んだという負の遺産や水銀のアニマが人格の器を作る為に無意識下で何らかの影響を与えたかも知れん。ネロが貴様に対して好意的だったのならば、尚更だ。貴様が契約し、宿している3体が消滅せずに戻った理由までは判らんがな」
「帰る場所が欲しかったんだろ」
 バージルの放った疑念をダンテが自信を持った即答で断言し、気丈な迷子達に優しい視線を送った。
「そいつらだけじゃなくて、Vも含めて全員、生きて行く居場所を探して、自分の場所が欲しくて魔界の中を彷徨ってたんだろ。自死なんてどんなに覚悟を決めてもそう簡単に出来るものじゃない。そこに丁度、力技で空けられた次元の穴が出現して、世界は違えどネロが居たんだ。そんな事があれば、理屈抜きで此処に来るんじゃないか、普通は。実際、ネロはお前達をうちまで連れて来た訳だしな」
 気が済むまでうちに居な、諦め切れないってのも案外悪い事じゃないと続けたダンテは、場の雰囲気を掻き乱すように道化じみた仕草と視線で兄を見る。呆然とするVと、憮然としながらも肯定したバージルを見比べて一笑すると、息苦しかった空気が吹き飛んだ。
「しかし、哲学的ゾンビか。肉体も魂も受け入れた癖に人格だけを独り歩きさせるなんて、全くウチのお兄様は酷い事するぜ」
「その選択をしたのは俺ではない」
「まあな、知ってるさ。そもそも、バージルがネロの腕切り落とす時点でこっちじゃ考えられない。精々、俺やの腹に控え目な風穴を空けるくらいだな」
「いや、ダンテは兎も角、は止めろよ。俺の恋人なんだから大事にしてくれ」
「あれ、おじさん、心の汗が目から溢れて来そうなんだけど?」
「ったく、しゃあねえな。1秒だけそこで静止してろ。レッドクイーンで焼いてやるから。焼き加減と部位は選ばせてやるから感謝しろよ。ベリーウェルダンと消し炭と灰燼のどれが好みだ? 場所は目か? 頭か? 顔か?」
「これがジェネレーションギャップか、甥っ子から溢れる優しさがバイオレンス過ぎて付いていけないな」
 大袈裟に嘆くダンテと、呆れたような表情を浮かべるバージル、飄々とした仕草で剣を手に取るネロの間で、食卓は俄に騒がしくなる。
 ネロのすぐ隣で、しかし心理的には一歩離れた場所で血縁同士のやり取りを観察していたが、弛緩した空気の中で何の脈絡もなくVに視線を送る。
「あのさ、俺は学がねーからよく判んねーんだけど、Vに噛まれたら」
「そのゾンビじゃない」
「あ、そーなんだ?」
 呵呵と笑ったは半分程しか口を付けていない中華料理をテーブルの中央へ追いやり、手を伸ばせば届く距離で繰り広げられる賑やかしく独特な団欒をどこか遠い目で眺めながら、気の抜けた笑みを口元に緩く描いた。
「ま、ゾンビでも半魔でも悪魔でも今更か。ところでさ」
「何だ」
「パン粥そろそろ冷めただろ、少しだけでも食っとけよ。ネロは料理上手いぞ」
 出来た嫁を自慢する旦那の顔で語るの気の抜けた言葉にVはあからさまに呆れた表情を浮かべたが、やがて諦めたようにスプーンを手に取り誰にでもなく呟いた。
「冥府下りにしては眩し過ぎるな」