曖昧トルマリン

graytourmaline

部屋を空ける日

 書庫の奥から引っ張り出して来た資料をデスクに広げつつ新たなデザインを模索していると、青い瞳がじっと喉元を見据えている事には気付いた。正確に描写すれば、喉元に装着された、鋲が入った赤い首輪に、である。
 視線の種類は好奇心や興味や満足感ではなく、苛立ち。
 他人の思惑に疎いでもひと目で理解出来る程の強い感情に、さて今回は一体何をしてしまったのだろうかと心の中で首を傾げる。
 贈られた経緯の是非は兎も角、初めてネロから貰ったプレゼントである首輪を彼は大切に扱っていた。定期的にレザー用のメンテナンスを行い、消耗品にならないよう出来る限りの事は常日頃から心掛けている。それでも毎日着けているのでどうしても細かい傷が入り色落ちしてしまっているので、それが気に入らないのだろうかと恋人に視線を向けると、何故か居心地悪そうに目を逸らされた。
 もっと大切に扱えと文句を言われるのだろうと予想していたが、どうやら違うらしいと視線を手元に戻す。まあ、どのような注文を出されようとも結局最後は絆されて許容していまうだろうが。それが良い意味でも悪い意味も無精なという男だった。
 なにか心配事でもあるのかと声を掛けられる雰囲気でもなかったので手を止めて、そろそろ休憩するかと独り言とも会話とも付かない言葉を口にすると背後からネロも付いて来る。矢張り、怒っている訳ではなさそうだと断定してリビングのソファに腰掛け隣のクッションを叩くと、年若い恋人は素直にそれに従った。普段ならば子供扱いするなと文句か軽口の一つが返って来るというのに、だ。
「ネロ、おいで」
 彼が何故このように振る舞うのか原因は全く判らないが、しかし、何かを溜め込んでいる幼い恋人を前にして何もしないという選択肢はの内部に存在しなかった。かといって、事態を打開する妙案を思い付く頭脳も、生憎彼には備わっていなかった。
 骨や内臓の損傷程度ならば甘んじて受け入れようと決め、暴言や無視ならば上等、力技での拒絶も覚悟で両腕を広げる。その腕の中に、常人を超越した肉体が飛び込んで来た。
 まさかここまで素直に甘えてくれるとは思ってもみなかったので身構えていなかった貧弱な肉体はソファの上を跳ね、そのまま強靭な青少年の体重に押さえ付けられ潰される。綺麗な顔の下に大型のネコ科に属する猛獣のような筋力を持つネロと、生命力と体格が共に雑草並みのとの差は割とえげつない。
 苦しくはないものの頭と腕以外動かせない状況に陥り、取り敢えず胸に顔を埋めて押し黙る恋人の髪を撫でながら、ノープランのまま口火を切ってしまった男はこの先どうするべきかと必死になって考えを巡らせる。
 耳の後ろや後頭部に触れつつ、どのような言葉を掛けるべきか1分程脳内会議を開き出た結論は、甘えたいみたいだから好きにさせておけだった。積極的に動けば常に事態が好転するとは限らないと、言い訳も忘れず付け足しておく。
「あのさ」
「ん、どーした」
「……矢っ張り、ちょっと待っててくれ」
「はいよ」
 肩に腕を回しても、赤ん坊をあやすように背中をゆっくり叩いても微動だにしなかったネロも、ずっとこのままでは宜しくないと理解しているのか、おずおずと口を開いた。たとえそれが延長願いだとしても、言葉を出せる余裕が心に出来た事の指標になる。
 言動からして別れ話や謝罪系ではない。耳や首筋が赤くないから、何度目かになる愛の告白でもない。ネロの人生に関わる大事ならば隣の半魔達が黙っていないのでこれも違う。ぞんざいな生き方をしている駄目な大人に対して躊躇うような内容とは何だと自問自答して、結局、答え探しよりも恋人を気遣う方を優先した。
 このまま寝落ちして、明日の朝になっても進展しなかったら自分から動こう、そう心に決めたであったが、せめてネロに毛布くらいは掛けてやりたいと思い直し、就寝前と訂正する。
 待ちの姿勢に入ったまま秒針が発する時を刻む音が4桁を超えた頃、ネロの左腕が緩慢に動きの首輪に触れた。苛立った感情は、未だ消えていない。
、これ外してくれ」
「いいぜ。ちょっと待ってな」
 何か心境の変化でもあったのだろうか。そんな疑問を一切表情に出さないまま恋人の指示に従い、赤い首輪を自分から外す。しかし、ネロの感情は治まる様子がない。
 それどころか、渋い表情を浮かべたまま上半身を起こし、更に両脚を動かしてソファから離れようとした。満足気な表情ならば兎も角、流石にこれは看過出来ないとが抗議の声を上げる。
「ネロ、いくらなんでもそれは不安になるから行かないでくれ」
は何も悪くねえよ、俺が1人でイライラしてるだけだ」
「じゃあ、その苛立ちをここで吐き出すってのはどうだ。俺はネロになら何言われても幻滅しねーし、笑いもしねーよ」
「スゲー下らなくて馬鹿みたいでクソみたいに面倒臭いぞ」
「でも1人で悩むよりはマシだぞ、多少は」
 最後に取って付けたような単語が入ったのは仕方がない。
 ネロの周辺に存在する大人が恋人や親族を含めて男女問わず軒並み問題児集団なので、こういう時は大人を頼れと胸を張って断言出来ないのが辛い所だが、それでも1人で抱え込んでは堂々巡りだと説得力のない説得を行うと、青い瞳がしばらく宙を漂い、意を決したようにサングラス越しの赤い瞳を捉えた。
 そして何故かそのままマウントポジションを取られ、視界をクッションで遮られる。下らないと言いつつもネロにとっては言い出し辛いらしいので、は何も言わずその行為を甘んじて受けた。贖罪と称して拳で腹に風穴を開ける彼の実父と比較すれば、聖人の如き気遣いである。
「まだ完成してないけど、この間さ、サングラス作っただろ」
「ああ、作ったな」
 つい先日、自身の紹介で巡り合わせた店だ。流石に忘れる事はない。
「で、最初の内はガキみたいに待ち侘びてたんだけど、何か、狡いなって思い始めた。首輪も、サングラスも」
「ズルい?」
 一体何が狡いのか理解出来ないに、だから下らないんだよとネロが吐き捨てるように言う。
「俺がの傍にいられない間も、俺がにやった物は傍にいられるだろ。それが気に食わねえって話だよ」
 ネロの言葉を纏めると、早い話が、独占欲の象徴として贈った物が逆に嫉妬の対象となっているという事らしい。
 成程、だから首輪を外すよう言い、しかし自分の片鱗を纏わない恋人の姿にも腹立たしさを覚えたのかと理解したは、視界を塞ぐクッションを退けてもう一度両腕を広げる。
「ネロは我慢強い子だな」
「はあ?」
「だって、そうだろ。嫉妬ってのは、自分と相手にあんまり差がなくて、でも相手が優遇されてるよーに思えるから生まれるんだろ」
「そりゃそうだけど、何でそこで我慢強いが出て来るんだよ」
 話の筋道が見えないと言うネロに、は真剣な表情で言葉を返す。
「学がねーからあんま上手く言えないけど……ネロとはさ、こうして隣同士で住んでても毎日は顔合わせられねーだろ。それって別に顔合わせる程好きじゃないとか、面倒とかじゃなくて、依頼が入ったから今日は無理とか、今は俺が仕事中かもしれないとか、そーゆー感じの遠慮や気遣いからだろ」
「まあ、そう言われると、そうかな」
「それって要は、ネロは普段から我慢してるって事にならねーかな。自分の感情よりも社会や相手を優先する我慢。でも、首輪やサングラスはそんなのお構いなしで俺に身に付けて貰えてる、ネロは毎日こんなに色々我慢してんのに」
「ああ、なんか、が言いたい事は理解出来た」
 でも、それってどうしようもない事じゃないかと言いつつ、ネロが上半身の力を抜き、待ち構えていたが受け止める。
 胸の上で腕組みする姿を観察すると、表情や雰囲気からは苛立ちが消えたが、代わりとばかりに不満が噴出していた。
「確かに、今のままじゃどーしよーもねえな。ダンテ見習って依頼選り好みして、バージルみたく俺の仕事中でも乱入上等って開き」
「直らねえよ、馬鹿か」
「だよなあ」
 ネロは真面目で良い子だから不良中年の真似事なんて出来ないし、して欲しくないと続けると、真面目でも良い子でもないと反論を食らうがは無視した。
「じゃあ、物理的に距離縮めるか」
「隣人だぞ。これ以上どう縮めるって言うんだよ」
「同棲しねーかって誘ってんだけど」
 幸い、部屋に余裕はあった。少なくともひとつ屋根の下に住めば毎日顔を合わせる事は何も不自然ではなくなるし、仕事中でも予定を把握し接客やタトゥーを入れる作業中でなければ声を掛ける事くらいは出来るようになる。今日は首輪やサングラスをして欲しくないとも言えるし、逆に外すなと言う事も出来る、はそんな細かい注文に対して文句を垂れる男ではなかった。
 隣人であるが故に、引っ越しに関してはバージルとダンテを説き伏せる自信はあった。問題はネロ特有の妖精ルール辺りだが、顔を赤くして満更でもない様子を見るに、これもクリア出来そうだと手応えを覚える。
「後で、電話で、キリエに確認してみる」
「おー、了解。保護者の同意が必要な感じなのか」
「でも多分ってか、絶対大丈夫だから」
「ネロが話すキリエさん像聞く限り、それっぽいな。そうだ、おっさんも挨拶した方がいいなら、あっちの事務所じゃなくてうちの電話使えよ」
「……ありがと」
 実父と発覚したばかりで実績は皆無なバージルでは保護者枠は流石に無理だったかとか、こちらの電話を使う気という事は冗談ではなく挨拶が必要らしいとか、は脳内で様々な思考を巡らせたが、取り敢えずは自分の上に赤い顔して寝転がる、自分よりもガタイのいい、白くてふわふわした小さな妖精さんを愛でる事に決めたのだった。