曖昧トルマリン

graytourmaline

嗚呼、我らが愛おしい子よ

 事務所内に設えたカウンターテーブルに肘を付いたダンテの視線が、窓越しに見えるきらびやかで澱んだ夜のスラム街から、隣のスツールに腰掛けている気迫も存在感も体付きも色素も何もかもが薄い男に移された。
 通い慣れたバーならば蠱惑的な美女が誘わずとも自然にやって来てこの位置に座るものだが、偶にはこんな空気の中で野郎と酒を酌み交わすのも悪くはないと溜息混じりの笑みを浮かべる。目の前の野郎が曲がりなりにも親友と呼べる部類の男だった、という事と、酒代が全てこの親友持ちという事も大きく関係しているかもしれない。
 バージルとネロの親子関係が良好に収束した記念と慰労を兼ねてと、あらゆるものが薄い男ことが複数のジンのボトルを細腕に抱えてやって来たのは、当人のスタジオが閉店時間を迎えてすぐの出来事である。
 件の親子が仕事で居ない事を何故知っているのかと挨拶代わりに問い掛ければ、今日は泊りがけで一緒にプロレス中継をテレビ観戦する予定だったがバージルが仕事に連れて行ってくれる事になったから謝罪に来られたと恐ろしく健全な答えを返された。
 兎も角、バージル同伴の悪魔絡みの仕事で恋人が出ていると知ったは、丁度いい機会だと思い以前から買い溜めていたダンテ好みの酒を携え訪ねに来た次第である。ダンテ当人にしてみれば身内の問題である以上は心を砕くのが当然で、誰かから褒められたくてやった訳ではないのだが、お疲れさんと気の抜けた笑みと共に両腕一杯に抱えたジンを寄越したを前にすると、まあ偶にはこんなのも悪くないなと思えてしまった。
 気疲れはしていないが、物理的に骨は折られ、神経は削られ、胴を半分程ぶった斬られ、全身が穴空きチーズの親戚になるまで体を張って兄の現実逃避を阻止したのは紛れもない事実である。
「格好良いよなあ。俺さ、ダンテのやる時はビシッと決められるトコ尊敬してる」
「それは有り難いな。青筋浮かべたバージルをけしかける随分お淑やかな尊敬の表現方法は一体誰に習ったんだ?」
「ソレはソレ、コレはコレだっての。ネロの鬱憤は晴らしてやりたいし?」
もバージルも二言目にはネロ、ネロ、ネロだ。全く、坊やは愛されているな」
「結構酩酊してんのは自覚済みだけど、今のは幻聴か? レディとトリッシュの手借りてまで事前準備してネロのケアを恋人に任せてる間にバージルの敵前逃亡を体張って阻止した功労賞モノの叔父さんが何故か自分は関係ありませんみたいな面下げて寝言垂れてやがる」
「ああ、全く、坊やは愛されているな!」
 キャッチボールのつもりで戯れに投げた球は2投目で終了し、豪速球で打ち返され急所を突いた。ダンテ自身もネロを甚く気に入っているのは自覚しており、だからこそバージルとの仲を取り持ったのだが、青年の恋人という立場に居るに指摘されると妙に気恥ずかしい。三者三様の愛し方であると理解しているが、それでもである。
 濃く作っていたジントニックへ更にジンを注ぎ足して胃の腑へ送り、今の遣り取りは酒の所為にしてしまおうと努力してみるが中々酔いは回らない。では逆にの記憶が飛ぶまで飲ませようと決心する前に、サングラス越しでも判るくらいに穏やかな笑顔が視界に入ってしまい毒気を抜かれる。
「後から知った身で言うのも何だが、なんか本当に、呆気なく収まったよな」
「まあ、そうだな」
 月並みで間抜けな同意の仕方だと自らの反応を評したダンテは空にしたグラスを置き、カウンターへ肘を付くようにして腕を組んだ。取り越し苦労などという言葉は一生縁がないと思っていたが、人生、何があるのか判らない。ただ、今回のこれは刺激に分類すべき事件ではないとは理解している。
 想像以上に素早く解決したので勘違いしてしまうが、罷り間違えば盛大に拗れていたかもしれない案件だったのだ。バージルがネロを単なる従業員、或いは実弟である自身以上に気に入っている事はダンテにもすぐ判ったが、逆に、ネロの本心は判らなかった。
 バージルを嫌っていないのは観察などしなくとも見れば理解出来る。ただし、それは師への憧憬であり、肉親への感情となると全く見当が付かなかった。ネロには家族同然で育った一家が居たものの、その短い人生の全てを孤児として過ごしており、現在は多感な年頃の少年だ、レディが口にしたように今更父親面するなと激怒する可能性や、血が繋がっているから何だとドライな考えを持っている可能性も考えた。一切の感情を削ぎ落とし軽蔑される事も、勿論。
 マイナス方向の選択肢が増え続ける中で、少しでもマシな結果に行き着く可能性を含むものはどれか。考えた上で、ダンテはひとまずに全てを託したのだ。
 バージルが危なっかしい状態になろうとも力技で説き伏せられると生まれる前からの付き合いであるダンテは確信していた、だがネロに必要なものは本音を吐き出し癒やしを与えられる人間である。今でこそ明かせるが、が失敗した場合、実はフォルトゥナの幼馴染の元へ返す算段までしていた。
「嬉しい誤算ってやつか」
「何がだよ」
「想像以上にが真っ当な人生観と恋愛をしていた事が」
「あー……うん、俺の半生と恋愛遍歴はアレだからそれは反論出来ねーし、する気もねえよ。ただな、嬉しいって形容詞を付けるならネロの頭の中の方が大誤算だろ」
 こんな自分がバージルの息子でいいのか悩んでいた、などと誰が予想出来ただろうか。
 恨み言の一つや二つではなく、一生許さない、二度と関わりたくないと絶縁を告げても周囲の大人は誰もが許す境遇だっただろうに。
 だからこそダンテも柄にもなく色々悩んだので、それに関しては同意見だと厚く大きな肩を竦めると、白く細く角張った手が触れ、ねぎらうように二度三度軽く叩く。
「もし次があったら、また巻き込んでくれ」
「言ったな? 後悔するなよ」
「する訳ねーだろうが、ネロが関わってんのに。ああ、でも次はもしかしたら、逆に俺が巻き込むかもだな」
「それこそ上等だ」
 画策したのはダンテだが、ネロがに惚れ、が呼応して変化を選んだからこその成果なのだろう。悪魔では成し得ない、人間だから辿り着く事が出来た大切な結果だ。
 は今後も同じような事が起こると指摘しているが、キーパーソンである当人は喜んで関係者となってくれるようなので過度な心配は止めようと話題の打ち切りを決定した。そもそも、自分はこんなキャラクターじゃないと気持ちを切り替え、何杯目かになるジントニックを作るべく適当なボトルに手を伸ばす。
「こいつ全然減ってないな。、別のボトル注いでやるからグラス寄越せ」
「何だ、ダンテは持ち主の癖にショットグラスの妖精さんの声が聞こえないのか。そろそろダンテの胃袋に転生したいって言ってるぜ」
 ダンテとは逆に、やっとの事でショットグラスの2杯目を空にしたは色素を失った白過ぎる肌を薔薇色に染め真顔で項垂れた。
 実は無理と言っている内は呂律も回り意識や足取りもしっかりしているので未だ飲めると付き合いの長いダンテは知っているのだが、今は勘弁してやるかと席を外し、冷蔵庫で冷やされていた赤い液体が入ったボトルを手に持って戻る。
 冷えたトマトジュースを注いだグラスを差し出せば、サングラスの奥に隠された瞳が焦点を結び、水がいいのにと呟いた。
「水だけだと酔い覚ましの効果が薄いらしいからな。酔いが覚めたらまた飲ませてやる」
「ようこそアルコール地獄へ、とか副音声で聞こえたな。それ拷問って言わね?」
「人の親切を地獄に拷問とはな、随分と狭量な親友を持ったもんだ」
「そんなダンテさんの親友君から大切なお知らせでーす。ずっと黙ってたけど、実は俺、植物系の半魔なんだ」
「興味深い話だな、だからを放置すると何日も食べず寝ずが続くのか」
「うんうん、そうなんだ。抗えない本能みたいなもんだよ」
「そうか、よく判った。血液から細胞まで緑に染色して日光大好きと言えるようになってから出直して来い」
「バージル並に切り返しが鋭くね?」
「冗談、あいつだったら物理的に斬り捨てながら土でも食ってろと言うだろうさ」
 いいから文句言わずに飲めとグラスを押し付ければ、今はそんな気分じゃないのにと不満を垂れ流しながら舐めるように飲み下し始める。
 食べ物の好き嫌いは一切ないはずのはしかし、纏う存在感と同様の極端に薄い食欲の所為で偏食を自覚しているダンテよりも乱れた食生活が暫し発生する。
 金も暇もあるのに3日間水しか摂らなかった、なんて質素で敬虔な修道僧ですら今時やらない絶食を平然と仕出かす事もザラなので、日頃から思い出した時に適度な飲み食いさせるようダンテは努めていた。
 尤も、最近は恋人のネロが構え遊べとこの男の元へ頻繁に出入りしているのでミルクだ砂糖だ菓子だとカロリーのある物を口にする機会も多く、故にダンテが訪問する頻度は激減している。まともな紅茶を飲みたいバージルは相変わらずのようだが。
「帰ったぞ……酒臭いな」
「ただいま、っておっさん人に仕事押し付けて酒盛りしてんじゃねえよ」
 扉の開閉音が現在脳内に挙がっている親子の帰宅を告げ、予想していたよりも早いそれにダンテが口を開くよりも先に悪態が吐かれる。帰宅の挨拶が必ず先に来ている辺りが如何にも親子で微笑ましい、と思い込んでおかないとやってられない。
「悪い、今回俺が誘ったんだ。ネロとバージルが無事親子の仲になった記念に」
 隠すような事でもないのでストレートに事実を告げたに対し、バージルは納得半分呆れ半分の表情を返し、ネロはそれよりも呆れの含有率が高い態度を見せ、素直に自身の気持ちを言葉に出した。
「馬鹿じゃねえの、何で当事者抜きで酒飲むんだよ」
「だってネロ居たら全員が独り占めしたくなるんだから仕方ねーよ。バージルとの記念なんだから、俺やダンテが独占するのは違うだろ」
「別に、に独占されるなら悪くない。そっちの髭は全力で拒否するけど」
「聞いたかダンテ、俺今すげー告白されたぞ」
「聞こえてたから一々報告するな。そして坊やは叔父さんに対して、もう少し優しく接してもバチは当たらないと思うんだが」
「普段の生活態度見直してから抜かしやがれクソ髭」
 ダンテの提案に右手の中指をおっ立てる大変下品な仕草で応えていたネロであったが、先にシャワーを浴びるようバージルに促されれると反抗する素振りすら見せず粛々とその言葉に従い、恋人に向かって勝手に帰るなよとだけ告げるとバスルームへと消えて行った。
 人徳の差かとしみじみと呟かれた親友の言葉は、ダンテの中でなかった事にされた。
「で、首尾はどうだったんだ?」
「呆気ないものだ。もう少し力のある者だと思ったんだが、あのような低級の悪魔ではネロの腕試しにもならん」
 親子が出向いた先で依頼された内容は、依頼主が蒐集している骨董品の壺に憑いたか棲み着いたかした悪魔の除去であったとダンテがに説明する。
 自分は全く魅力を感じない依頼内容だったが、バージルが息子の経験の足しにと連れ出したのだとも付け加える。
「経験の足しって、ネロが対峙した経験のない悪魔だって判ったのか」
「容れ物好きの悪魔ってのは内部に作った自分に都合のいい空間に招いて、定めたルールが破られない限り負けないってタイプが多いんだよ。坊やの仕事は力押しがメインでそっち系じゃなかったからな」
「じゃあ、条件看破からやらなきゃって事か」
「特定の対象に一定のダメージを加える、現在見せられている物が幻覚だと気付く、その空間から脱したいと嘘偽りなく思う、悪魔の考えるパターンなど慣れればひと目で割れる。俺や愚弟ならば条件など関係なく直接親玉を殺すが」
「セーフティーネットの頑丈さが並じゃあねーな。今回のネロには必要なかったみたいだけど、ま、実際どんな悪魔なのか遭遇しないと判んねーから同伴は当然か」
 空のショットグラスを差し出すを無視して、バージルはトマトジュースを手近なボトルで割りカウンターに寄り掛かる。ブラッディ・サムと呼ぶにはアルコールが濃過ぎるが、弟同様に彼も彼の内臓も気にしない。
「それで、その壺野郎はどんなタイプの悪魔だったんだ」
「蝿にも劣る低級だが、ある意味、あの悪夢には苦労はしたな」
「ネロが倒す前に手が出そうになった、辺りか」
「愚弟にしては物分りが良いな」
「想像力は豊かなもんでね」
 ネロの姿だけを真似た悪魔が捨てられた恨み言を延々と吐いて来たと続けたバージルに対し、ダンテは兄の鋼鉄製の精神力を讃え、は獲物が反撃しない理由を読み違えた悪魔の運と頭とタイミングの悪さに同情した。
 親子関係の暴露から関係修復までの時間が極端に短かった故に傷は浅く、しかも化けたネロ当人は実父への恨みなど抱えておらず、寧ろこんな自分が息子で申し訳ないと思っていたのである。あの日、窓の向こうで本心を聞いていたバージルからしてみれば、薄汚い悪魔が愛息子を穢している状況など決して許せる筈なかったのだ。
 ネロの経験の為に手出しは禁物とひたすら呪文のように唱えなければベオウルフで粉微塵に破砕していたと語るバージルに、ダンテもも労りと慈愛に満ちた生暖かい視線を送る。より強い力を必要として実の弟を殺そうとした男も、変われば変わるものだ。
「で、バージルの忍耐力が試されている間に、坊やの方には何があって、結局どうやって倒したんだ」
「悪魔が化けたにショウダウンを叩き込んだと言っていたな、悪魔は倒したがあと少しで依頼品も割りそうになっていたから、その辺りは反省させなければな。ああ、そうだ。何でも、貴様が絶対に言わない事を口にしていたらしい」
「俺が言わねー事? 実はネロと付き合ってんのはお遊びだったんだぜー、気付かないなんて馬鹿なお子様だー、みたいな?」
「概ね、そのような内容だ」
「マジかよ。ピンポイントでそーゆー事がないようにって言い含めた直後にこれとか、精神攻撃の方向が間違ってるだろその馬鹿悪魔。種火もないのにガソリン撒いた直後に油塗れの手でタバコ吸うアホの親戚か?」
 つくづくタイミングが最悪だが、上っ面だけ垣間見て偽者を騙るから低級なのだとバージルが言う。上級悪魔はもっと上手くやれるとダンテも告げるが、でもどの道2人には関係ないじゃんとが正論を吐く。
「ちょっと待てよ、忍耐強いとは言えない坊やに偽がそう言ったって事はだ。なあ、バージル、偽ネロの戯言に耐えたのは実質何秒だ」
「10秒に満たないな」
「さっきの発言は撤回する。全然鋼の精神力じゃないな」
「以前の俺ならば、あのような雑魚は1秒以下で斬り殺していたのだから進歩だろう」
「桁が1つ違うと言えば聞こえはいいが、実際は9秒も増えなかったんだろ」
 呆れたように深く溜息を吐いたダンテだが、そういうお前は同じ状況に置かれたらどうするのだと問われ形勢が悪くなり、そんな事よりも今日は飲もうとジンのボトルをバージルとに手渡す。
「ジンはこのように飲む酒ではないだろう」
「俺もう無理、一滴も飲めねえ」
「なら雰囲気だけでも」
 乾杯、と強引に告げれば、3人はそれぞれの表情でボトルを掲げ、事務所の照明を浴びて輝くガラスを互いに打ち鳴らす。
 青や緑、透明な瓶の中で激しく揺れるジュニパーベリーの香りがする酒を、幸せそうな表情でまた一口、ダンテはただ静かに飲み込んだ。