振り回し、振り回され
一仕事終え施術室の片付けと掃除を済ませたは欠伸と共に背を伸ばして、さて水でも飲んでから地味で楽しい書類仕事にでも掛かるかと階段を下りた所で足を止める。
30分程前に客を見送った時には存在しなかった、事務所の壁に背を預けながら並ぶ3個の人影。右から、トリッシュ、ダンテ、レディの順で無音の小型のスピーカーを囲み、スピーカーから伸びたケーブルは小さな黒い箱を経由して開け放たれた窓から外に伸びていた。
には何の機械なのか全く理解出来ない代物だったが、ダンテとレディが声を掛けるのも躊躇われるような真剣そのものといった表情をしているので、お遊びやお巫山戯の類いで持ち込まれた物ではないのは確かだろう。尤も、ジョークグッズを勝手に設置された所で怒るような男ではないのだが。
隣店より飛来した鉛玉に剣圧、ジュークボックスやビリヤード台、ダーツボード、更には赤い方の半魔が床板を破壊しながら謎のオブジェ化した事だってある。過去に起きた諸々に比べれば、行動が奇っ怪なだけで非常に慎ましやかだ。
店を荒らされなければどうでもいいと結論付け、何をしているのかと尋ねるのも面倒臭いのでキャンセルする。当初の予定通り水でも飲むかとキッチンへ向かうと、2人よりも余裕を持った表情をしていたトリッシュが輪を抜けやって来た。
「久し振りに顔を見たけど、あまり、いえ、全く変わっていないようね」
「そーか、結構変わったぞ? ついこないだ、お前は変わったなってバージルにも言われたばっかだぜ。あー……トリッシュは俺とネロの関係知ってる感じか?」
「勿論、レディもね。ダンテが事細かに教えてくれたわ」
この2人を巻き込む事で面白くなりそうだから漏らしたのか、問い詰められてゲロったのか、確率はどちらが高いかとは冷静に考え、漏らすつもりだったが先に問い詰められてゲロったと勝手に決定する。
確証は一切存在しないが、当たらずとも遠からずだろう。
「坊やとは上手く行っているみたいね、愛想尽かされないように頑張りなさい」
「ありがとな。俺、トリッシュのそーゆー所ホント好きだわ」
二言目には何時別れる予定なのかと楽しげに尋ねて来る金欲塗れの女性客達とは一線を画する気遣いを受け取り、礼も兼ねて冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのボトルを差し出すが、隣のトニックウォーターの瓶を持って行かれた。
苦くて酸っぱいけれど甘い、夏蜜柑のような風味の炭酸飲料を一気に半分空にしたトリッシュの隣で、は手にしたボトルのキャップを開ける。同時に、自身の失言に気付いた。
「あ。俺今、好きって言ったか。悪いけどオフレコでいいか?」
「いいわよ。話には聞いていたけど、若い恋人は嫉妬深いのかしら」
「いや、ネロがどーこーじゃなくて、不用意な発言で不安にさせたくない唯のエゴ」
「そういう事ね、ご馳走様。貴方は貴方で可愛い坊やを溺愛してるのね。それに、さっきのは訂正するわ。確かに貴方は変わったみたいだから」
残りの半分も一息で飲み干したトリッシュから空き瓶を受け取り、またねという言葉と共にキッチンから出て行く美しい背中を黙って見送る。
別れの挨拶をしたという事は先程の輪に戻らないのかと疑問が浮かび、店の扉が開閉する音で答えを知った。トリッシュという女性は何時だって何にも縛られず気紛れで自由だ。とはいうものの、や彼の周囲の友人は方向性が異なるだけで軒並み自由な生を謳歌しているのだが。
好きなように生きるのは大変だが大切な事だと自由の価値に一人頷いたは、では書類仕事に精を出すかと事務所へ向かう。相変わらず、人影はそこに存在していた。
会話のない事務所の中に、ペン先が紙を引っ掻く音や電卓を叩く音が混じる。壁際の2人は微動だにせずスピーカーを睨んでいたが、しばらくもしない内に明瞭としない音がごく短い間漏れ聞こえた。同時に、ダンテが逃げやがったと呟きながら立ち上がり、コートの裾を翻して店から出てく。レディはレディで、重苦しいため息を吐いていた。
両者のサングラス越しに視線が合い、オッドアイと色素のない瞳が数秒間見つめ合う。とはいうものの、2人はアイコンタクトのみで全てが通じるような仲ではなかった。
「何があったか訊いた方がいい感じか?」
「こっちとしてもそうしたい所だけど、説明はネロに任せるわ」
設置してあった機材一式を手早く片付けたレディは窓から姿を消し、残されたはどうしたものかと腕を組む。
「会いに行けって事か? それとも、訪ねに来るまで待っていろって事なのか?」
ネロを探しに行くべきか、自分の城で待つべきか。数秒思考して、は後者を選んだ。冷えたミネラルウォーターを飲み干したかったし、ご指名を受けたネロが今現在何処に居るのかも知らなかったからである。十中八九、隣の事務所に居ると思われるが、万が一というのもある。擦れ違いは遠慮願いたい。
銃声と剣戟のようなものが開け放たれたままの窓から聞こえたので大事を取って閉めようとしたタイミングで、早速件の青年が顔を見せに来た。けれど、何か思い悩んでいるような表情を浮かべていて、普段のような覇気がない。
確実に何かありましたという雰囲気を纏いながらも口を開かない相手に、ストレートに何があったかと訊くのは流石にでも躊躇われる。取り敢えず、馬鹿の一つ覚えとしていつも通りミルクティーを飲むかと尋ねると、首を縦に振った後、すぐに否定された。
「あのさ、バージルは何時も何飲んでるんだ」
「ダージリンとかウバとか茶葉はマチマチだけど、すげー高い紅茶。で、ストレートばっか飲んでるな」
「じゃあそれで」
「はいよ。お湯沸かすからちょっと時間かかるけどな」
目の前の恋人と、先程まで店内に居た3人の様子から、彼とバージルの間で何かあったと推測するべきなのだろうが、当然、その考えを表情には出さない。面倒臭いとの無精からではなく、当事者が話したい時に口にするべき話題だという理性的な判断からだった。
ダンテとレディが動き出してから未だ幾らかも時間は経過していない。落ち着いて考える時間を与えるべきだと引き返したキッチンの中で頷き、バージルによる肉体言語で覚えさせられたゴールデンルールで紅茶を淹れる。生憎、今日はお茶請けがなかったが、それがある方が珍しいのはネロも理解しているだろうからと心の中で言い訳をしておいた。
インディゴ・ブルーで市松模様が描かれたティーカップに紅茶を注ぎ、応接室兼事務所に顔を出せば、ネロは定位置とは別の場所に座っていた。不安の色を孕んだ透明度の高い湖のような瞳がを捉えると、いつもの正面ではなく隣に座るよう促す。
距離を詰めるようにして腰を下ろし、そのまましばらく、2人は黙って紅茶を飲んだ。開きっぱなしの窓から流れ込んでいた外の喧騒はいつの間にか止んでいたが、現在の話題には適さないと白髪に包まれた脳味噌が判断を下す。
「前から思ってたけど、紅茶、淹れるの上手いな」
「まーな」
ゆっくりとした仕草でカップをソーサーに戻したネロは、未だ混乱していますと読み取れる表情のまま、躊躇いがちに口を開いた。
「頭では理解出来たけど心は納得出来ないって事、あるだろ」
「ああ、勿論あるぜ」
「バージルも多分そんな感じだった。でもさ、俺は逆なんだよ。納得は出来たけど理解が追いつかないっていうか」
「珍しいパターンだな」
話の筋が全く見えないが、は明瞭さも簡潔さも求めていないので適当な相槌を打つに留まる。ネロ当人が言うように既に納得している出来事ならば、それ程難しい問題ではない筈だった。
「……は、あ、もしもの話だからな。アンタとは恋人で、別れたいなんて全然思ってないから、例えばの話だって思って聞けよ?」
「オーケイ、あくまでも参考意見って事だな」
あたふたと弁明しようとするネロに寄り添って笑い、心配するなと安心させる。
デートの約束1つで嬉しそうにはにかみ、直後、デートスポットを物理的に潰された所為で辺り一面を血の海に変えた恋人の気持ちに疑念を抱くなど、には爪の先程もなかった。
恋人との信頼関係の構築はビジネスよりも難しい。今後は例え話程度で釈明される事がないよう関係強化に努めようと、脱甲斐性なしを掲げ自分の心に深く刻む。
「それで、どうしたんだ?」
「ああ、うん。もしも俺が、の息子だったら、どうする?」
「んなもん、でろっでろに甘やかすに決まってんじゃねーか」
「え、は? 甘やかすって、何で?」
「だって息子だろ。しかも不特定な誰かじゃなくて、ネロが。恋人はお互い対等な関係築きたいから結構模索するけど、親子なんて甘やかし放題じゃねーか。そりゃ、躾も必要かもしれねーけどネロが息子なんだろ、要らなくね? 寧ろ、俺が駄目親で躾られるっつーか、見限られて縁切られる可能性が高いぜ?」
「ちょっと待て、あのな、俺だぞ?」
「うん、だから、もしもネロが息子だったらって話だろ。大歓迎するに決まってるだろ」
「こんな奴、息子に欲しいか?」
「ネロこそちょっと待て、自己評価低いぞ?」
「だって、俺は口も態度も悪いし、協調性なくて生意気で面倒で短気だ。デビルハンターとしての実力も、その辺の連中よりはあるかもだけど、胸張って一流とは言えない。この間もバージルに、右手に頼り過ぎるのは禁物だって、細かく注意されたばっかりだ」
話の流れで大体何があったのか全体像を察したは、最適解を探し出し、ついでにバージルの召喚も望んだ。後者は望むだけで叶えられなかったが。
「うん。色々否定したい単語で一杯だったが全部無視して大事な部分だけ言うぞ。あのな、ネロ。バージルは気に入らない奴に戦闘のアドバイスなんて絶対にしない」
「でも、俺は一応、従業員だし」
「勘弁してくれ、あの馬鹿は結局一言も伝えてねーのかよ」
比喩ではなく頭を抱え、まあバージルだからなと小さく口にしてからネロの肩を掴む。
後でバージルに殴られるか刺されるかするかもしれないが、にとっては自分の体よりも恋人の方が大事だった。
「ネロと俺が付き合い始めたばっかの頃っつーか、アレだ、丁度あのボスにネロを紹介した日にな、バージル態々こっちにまで来て、気に入らない奴を従業員にはしないってはっきり言ってたぜ。ネロは家族のようなものだからってすげー気に掛けてるし、泣かせたら切り刻むって脅された」
本人に直接言わないから判りづらい男だけれど、ネロは愛されて受け入れられている。青い瞳から不安を取り除くようにはっきりと告げると、やがてそれが真実だと理解したのか強張っていた表情が花のように綻んだ。
そこまで見届けて肩から手を退けると、淡く発光した右腕が伸ばされ、指を絡めて来る。だからネロはなんでそんなに可愛いのに自覚していないのかと衝動的に吐きたくなった言葉をすんでのところで止め、握り返しながら次の反応を待った。
「……バージルさ、俺の、実の父親なんだって。ダンテが教えてくれた」
先日、娼婦の事が話題に出て、ふと記憶を辿り不安を覚えたバージルが情報屋に探らせた結果、クロだった。調査結果を発見したダンテの手により、つい先程、事務所内で行われた発表会はしかし、両者の沈黙から居た堪れなくなったバージルの逃亡という形で収束しつつあるらしい。
成程、ダンテが呟いた逃げやがったはこれかとアタリが付いたが、は沈黙を守った。色々画策した上で親子水入らずと告げて2人きりにしたのだろう、ならば、その3人がこの場で続きを盗聴していたとは告げられる訳がない。
「んー。そっか」
「矢っ張り、そういう反応するよなあ。ああ、なんか納得、みたいな」
「そりゃあ、するわな。理解より先に納得も当然か。今だから言えるけど、俺初めてネロ見た時、バージルかダンテの隠し子かって思ったぜ」
「俺は遠縁の親戚かなって思ってた」
「遠縁にしちゃ似過ぎだろ。若いけど、年齢的に無理はねーのに」
胎の中で育てなければならない女性でも射程内、種を蒔くだけの男ならば十分予測範囲内に収まる年齢だ。性欲という意味合いだけならば、ど真ん中の年齢と言っていい。
「実力差があり過ぎて血縁だと思えなかったんだよ。駄目な部分もあるけど、尊敬出来る事が多かったから、父親って考えはなかった。俺は、この人に相応しくないなって」
「俺の耳がおかしいのか? それとも脳がイカれたか? 人格的に数段優れてるのに相応しくないとかネロの中のバージルはどんだけ聖人君子なんだよ。ちょっと誰か今すぐバージル呼んで来い」
「誰かって誰だよ、此処には俺とアンタしか居ねえのに。ああ、それと、の事もあるから考えたくなかった、かな。父親の親友と恋愛とか、まあ、付き合って行く内にはそういうの気にしないタイプだって判ったから、今は心配してないけど」
可愛らしい事を言葉にしつつ、頬を寄せるように距離を縮めて来たネロを受け入れて、肩を貸す。
きっとネロの前から逃げたバージルも、今まで息子の存在すら考えた事などなかった自分は父親としてあってはならず絶対に受け入れて貰えないとか何とか脳内で理屈を捏ね敵前逃亡をしたのだろう。こんな時、颯爽と動ける身軽なダンテをは尊敬していた。中々、言う機会に恵まれないが。
親子だなあ、と銀の髪を優しく梳き、軽く唇を落とす。照れる事もなく甘えてくるネロの中には、きっと未だ僅かだが、不安の種が残っているのだろう。
矢張りバージルの召喚が望ましいと扉を見つめるが、そこが開く気配はない。しかし、その内、ダンテが実力行使をして連れて来るのは確定しているので心配はしていない。
そんなの内心を知らないネロは、自分を安心させるように微笑み、何か思い出したのか喉で笑う。
「なあ、」
「どーした?」
「さ、俺の事、一度だけ泣かせただろ」
「あー、あれな。もう客とはハグもキスもしてないから黙」
「ネロを泣かせただと!? 、辞世の句を読め。3秒だけ待ってやる、3」
「Rock you!」
「っててくれ、流石に切り刻まれたら俺でも死ぬわ、ってーか、バージル何時からそこに居たんだ。ネロはあんまり暴れてくれるなよ。ダンテとレディとトリッシュは窓から入って来てもいいからバージル止めてくれ、あ、やっぱダンテとレディは見学で。トリッシュお願いします」
の発言が原因で窓から侵入してきた青い半魔にネロが即座に反応して、店の中は一瞬でカオスと化す。楽しげな笑顔でリベリオンとカリーナ=アンを構えた半人間と純粋な人間を制止し、純然たる悪魔の美女に頭を下げた。
「私1人にタダ働きさせる気?」
「さっきのトニックウォーターでチャラは無理か?」
「子供のお使いじゃないんだから。でもそれで許すわ、今は気分が良いの」
両腕に電撃を纏ったトリッシュがネロのサポートに入り、バージルが押され始める。幾つか室内の装飾や備品が壊れているが恋人の方が大事なので目を瞑った。
「で、4人は何時から窓の外で待機してたんだ?」
「貴方が紅茶を持って出て来た辺りからよ」
「何となくそんな気はしてたけど、じゃあ、アレか。その前まで聞こえてた戦闘音」
「逃げたバージルを3人掛かりでボコってた音だな」
トリッシュが罠を張り、ダンテが直接対峙し、背後からレディが追加支援。よく見るとダンテのコートが血塗れで穴だらけな事実に気付くが、バージルのそれは更に輪をかけて酷い事にも気付いた。
「なら意地っ張りな坊やの本音を引っ張り出せるとは思ってたが、まさかあんな理由とはな」
「今更父親面されて困ってると思ったんだけど。あら、勝負が着いたようね」
「バージルでも連戦はキツイみたいだな」
「ネロが相手だからじゃないかしら。息子当人は全く手加減する気はないみたいだけど」
コートを焦がしながら床に倒れたバージルをネロの右手が掴み、投げる。
そのまま彼は青い矢となって開け放たれていた窓を通過し、己の事務所の窓を突き破り、お世辞にも綺麗とは言えない床にスライディングして行った。
普段は投げ飛ばされてばかりの弟が腕を組み、口笛を吹く。窓と壁の向こうの兄は沈黙しているので、多分意識がないのだろう。
「いやあ、面白い見世物だったな。じゃあ、俺はしばらく身を隠すから」
「はあ!?」
「誰だってキレたバージル相手にしたくないだろ」
「そうね、私もこの辺で帰るわ。次の仕事もあるし」
「私もまた旅に出たい気分になったから、留守番お願いね」
「おい、待てよ! 散々引っ掻き回して」
「ネロ、怒るだけ無駄だ。それよりバージルの手当てしよう」
好き勝手宣言して店から出て行く3人を引き止めず、は首を左右に振り無駄な事はするなと諌めた。
青い瞳に怒りが滲んでいるが、赤い瞳の持ち主はそんな怒るなよと軽く肩を竦め、無事に生還を果たした電話の受話器を手にする。
「で、アンタは何してんだよ。また壊れた店の修理でも呼ぶのか?」
「まさか。今の内にダンテが行きそうな店に片っ端から連絡付けておく、バージル連れて来てくれ。で、目を覚ましたら居場所を教えてやろーぜ」
ネロを巻き込んどいて勝ち逃げなんて許すかよと笑う年上の恋人に、溜まっていた怒りとストレスが一気に霧散した。バージルの怒りの矛先が目論見通りダンテに向かうかどうかは判らないが、ネロはそれに関して不安を抱かなかった。
「目覚したバージルが怒り狂っても、俺が絶対に守ってやるからな」
「ここで突然宣言するとか男前、ネロが逞しすぎて惚れ直しそう」
「顔、真っ赤だぜ。」
「本気で惚れ直してるからだよ」
ダイヤルに手をかけたまま年甲斐もなく顔を朱に染めたにネロは近付き、悪戯っぽく笑いながら頬に口付ける。
どうだ、と言わんばかりの満足げな表情を浮かべたまま父を迎えに行ってしまった格好良くも可愛らしい年下の恋人の背中を眺め、今日はもう店じまいしようとは大げさな仕草で天井を仰いで決意するのだった。