曖昧トルマリン

graytourmaline

右手はもう塞がっていたから

 麗らかな春の午後、とは言えどもスラム街は所詮スラム街である事に変わりはない。また、季節が変わったからといって悪魔狩りの仕事が増えるわけでも、勿論ない。
 毎度の如く鳴らない電話を前にして、真昼間から成人男性向けの雑誌を読んでいた店主弟に買い物リストを渡されたのが今から90分前。
 散々文句を吐きつつも、いつも世話になっている店に赴いたのが70分前。
 ストロベリーフレーバーのアイスクリームが品切れ中という事に気付いたのが60分前。
 路上に罵詈造語運を撒き散らしながら別の店に赴いたのが40分前。
 現在、リスト内容を全て揃え、右腕に抱えた紙袋に舌打ちしながら帰宅中。
 赤い方の店主が甚く気に入っているアイスクリームの所為でネロの瞳もイチゴの如く鮮やかに染まっているが、幸か不幸か擦れ違う人間はそれを正面から見ようとはせず、気配を察知してそそくさと道を開けていく。
 それでなくてもネロの存在はあの双子が所有する店の新参者として有名であったし、何も知らない人間も背負われた大剣や腰にぶら下がっている銃を見れば悪い意味で只者ではないと理解できるだろう。
 Fワードを連発しながら猛然と歩き、とうの昔から灯りの点かなくなった街灯に八つ当たりをすれば鉄柱がひん曲がった。せめて悪魔の一匹や十匹や百匹でも居ればこの積もりに積もったストレスも少しは発散できるのだろうが、この辺りの悪魔は街灯の灯りが消える前から例の双子に淘汰されている。
 蹴り倒す街灯も無くなり再び足早に歩き出すと、足の裏で何かが割れる感覚がして思わずその場に立ち止まり、怪訝な表情のままそれを見下ろした。ブーツの下には無残に割れた青空を映した鏡。
 薄汚いビルの隙間を映し出した銀色の欠片の中では、綿のような真っ白な雲が散乱した青い光の中を漂っている。そこから足を退ける間に翼を持った小さな黒い影が数匹横切り、囀りが頭上から降って来た。
 別の一欠片には今正に紅から蒼へと変化する瞳が映り、その目を有する若者、ネロ自身の不満そうな表情を本人に自覚させる。
 買い物袋を抱いて割れた鏡を覗き込む自分を見せ付けられ、不満の表情は徐々に変化を見せて最終的には呆れとも諦めともつかない、或いは双方を含有させたものに落ち着いた。
 早く帰ろう、帰って隣家に棲む恋人に愚痴を吐き散らしてスッキリしよう、お互い飛び込みの仕事さえなければ大丈夫だろう。脳内で今後の予定を立てたネロは地面から顔を上げて意図的に早足で、けれど先程よりもゆっくりした歩調で再び歩き出した。
 事務所が相変わらずなように、恋人のも春だからと言って外に出る気配は全くない。天候、気温、季節その他諸々が移り変わろうとも彼はいつも通り店に引き篭もって、時折ネロや彼の雇い主であり親友である双子の半魔に会いに来る。その度にミルクティーを飲みに来るようにしつこく勧誘するのは最早二人の間の決まり事となりつつあり、彼と顔を会わせてミルクティーの話題にならなかった事などない。
 そろそろ、そのミルクティーを飲みに行ってやろうか。青い方の店主が得た情報によると、は本当にいつでもネロがミルクティーを飲みに来てもいいようにミルクを絶やさず買っているようだから、突然行っても問題ないだろう。いつものあの、人畜無害な笑みを思い浮かべ口端を緩めた。
 先程とは打って変わって鼻歌でも歌いだしそうな陽気さを纏ったネロは落書きだらけの建物の角を右に曲がった所で、ふと足を止めてしまう。進行方向、しかも真正面に居た生き物がまるで彼を待っていたかのような堂々とした姿勢で、にゃあと鳴いたからだ。
 白地に焦げ茶の毛皮を纏ったそれは、まごうことなく猫、しかも庇護を必要とするか弱い仔猫ではなく立派な成猫だった。
 猫はネロと同じ春空色の瞳を向けて抑揚のない声でもう一度鳴くと、焦げ茶の尻尾をぴんと立てて音もなく傍に寄り、斑の頭をブーツに強く擦り付けて来る。ネロがぎょっとした一歩下がると、それを追って再び頭や首筋を擦り付けた。
「俺が平気なのか?」
 買い物袋を抱えたまま膝を折り恐る恐る左手を伸ばすと、猫は新しい対象を発見したとばかりにその手の平に両耳と頭を押し付ける。
 試しに額から首筋にかけてを撫でたり、咽喉を擽ってみると満足そうに目を細められた。
 手を退けてみると、くあ、と大きな欠伸をしてピンクの口内と白い牙が見えた。そうしてからもう一度、もっと撫でろとばかりに頭を手の甲に押し付けてくる。
 傲慢なのか図太いのか能天気なのか馬鹿なのか、いずれにしても、ネロはその猫の欲求を満たしてやろうと再び手を動かし始めた。
「お前、実は猫じゃなかったりして……そんな訳ないか」
 手触りのいい毛皮を撫でながらネロは荷物を抱えたままの右手を見つめる。
 人ならざる手、悪魔の右手。元々動物には好かれない性質だったネロだったが、右手がこうなってしまってからは近寄ってすら来なくなった。人間と悪魔以外の生き物に触れたのは、思い返してみればみる程に久し振りで、もう少しこうしていたくなる。
 焦げ茶の尻尾をはたり、はたりと揺らした後で寝転び、真っ白な腹を出して咽喉を鳴らした。時折、揺らしていた尻尾がブーツに当たって音を立てる。
 そうして全身を撫でてやると、ふと猫はむくりと体を起き上がらせておもむろに毛繕いを始めた。撫でていた手を止めて猫が前足や背中を丹念に舐める姿を観察しながらネロは笑みを含んだ声で呟く。
「なんだ、撫でられ方が不満なのか?」
 話しかけられた言葉に反応したのか、薄い青の瞳がネロをじっと見上げ、そしてまた毛繕いに集中する為についと逸らされた。自分の相手に飽きたのだろう、と猫に構われた事を素直に認めたネロは、今度こそ恋人の所へ行こうかと立ち上がる。
 けれど、動かそうとした足に再び柔らかい重み。見下ろしてみると、案の定そこにはつい今まで毛繕いをしていた猫が再び全身を使ってネロの歩行を妨げていた。試しに立ち止まって、再び膝を折ってみると猫は再び撫でてくれと頭を差し出す。しばらく撫でれば、当然毛繕い。そして立ち上がって、エンドレス。
 別に無視しての元へ行っても全く支障ないのだが、久々に懐いてくれた動物が引き止めているのに自分から手放すのも気が引ける。少しの間考え込んで、ネロはその場に座り込んだ。恋人には明日会いに行って、今日の事を報告しようと心に決める。大体においてネロはに対して日頃の愚痴しか言わないから、偶にはこんな事を報告するのもいいかもしれない、と考えた結果だった。
 ネロがぼんやりとした様子でグルーミングを観察していると、猫はまた大きく寝転んで、今度は腹の毛繕いを始めた。地面を背にしてそんな事をしたら、また背中の毛繕いをしなければならないのに、そういった合理的な思考は皆無らしい。
「あ、お前オスか」
 大開脚をして股間を舐めている猫を見て、ネロは間抜けな格好だな、と続ける。
 両前足を地面に着け、左後足は横へ、右前足は上へ上げたまま、それでも猫は一心不乱に腹から股間にかけてを舐めている。目の前で猫の足がゆらゆら揺れるのを見て、ネロは通じないことが判っているにも関わらず問いかけて確認を取ってみた。
「肉球、触って良いか?」
 当然返答などないのだが、訊かずにはいられない。何処からの知識だったかはもう忘れたが、猫は肉球を触られるのが嫌がった筈だと自らの記憶を掘り起こす。人間相手に手の平触っても良いかと問うようなものだ普通嫌がる、と言われて妙に納得したから、多分入れ知恵をしたのはクレドなのだろう。
 そう言えば、クレドとキリエは動物から好かれていたな、と昔の記憶を探って妙な感慨深くなった。あの二人は猫だけでなく犬でも馬でも鳥でも、兎に角動物という動物に好かれていた、自分とは大違いだと感じたことが多々ある。
 そんなネロを気にしてか、二人、特にキリエは自分に懐いた動物を抱いてよくネロに近付いていったが、彼等、或いは彼女等は本能に忠実でネロが近付くと警戒心を顕にして威嚇してきたり、全力で逃亡したものだ。
 別に動物に避けられたからと言って傷付くような玉ではないが、キリエにはその度に謝られたなと苦笑する。彼女は、そして抱えられた動物達も何も悪くないのに、酷く落ち込んだ様子でごめんなさいと言うのだ。
 みゃあ、と再び声がする。ネロが過去の回想を止めて意識と視線を猫に戻すと、今度は猫が跳躍して膝の上に乗ってきた。どうやら毛繕いを終了させネロを構う事に決めたらしい。
 小さな頭が胸に擦り付けられ、もう一度鳴かれる。何度か撫でてから、試しに肉球を一度だけ撫でてみた。嫌がる素振りは全くない。相変わらず咽喉をゴロゴロと鳴らしている。
 これなら大丈夫かと思い、前足の肉球に触れてみた。ぷにっとした弾力がある、そして意外に冷たい。てっきり温かいものだと思い込んでいたが、そうではないことを初めて知った。指先にちょっとだけ力を入れると指の間が開き、しばらくすると元に戻った。
 何度かそれを繰り返し、すぐに満足したネロは初めて経験させてくれた礼だとばかりに、猫が満足するまで構い始めた。
 撫でて欲しい箇所は猫から直接態度で示されているので判り易い。ある程度満足すると再び毛繕いを始め、それに飽きるとまたネロに撫でろと要求してくる。そんな事を飽きもせずに繰り返していると、唐突に、目の前に長い影が現れた。
 何事かと顔を上げれば、そこにはいつもと同じ穏やかな雰囲気を纏い微笑んでいるが居た。帽子とフードを目深に被り、肌を日光に晒さないような服装といつものサングラス、そしてネロが買った例の赤い首輪をした姿だった。
 片手には白いビニルの袋、透けて見えた中身は低音殺菌のミルク。誰の為のものなんて、問わなくても判っているそれ。
 何でここに居るのか、という言葉よりも先に出たのは笑みだった。
「すごい日だ」
「うん?」
「猫に懐かれたし、外でに会えた」
「成程」
 ネロの隣に座ったは誰に許可を求めることなく、猫の頭を撫でる。すると、猫も一声鳴いて手の平に頭をぐりぐりと押し付ける。始めのネロと全く一緒の動作だった。
「成程、確かにすごい日だな」
 サングラスの奥にある赤い瞳が笑ったのを、ネロは確かに見た。その視線にすぐ気付いたらしいは猫に対してよりも優しく穏やかな表情で恋人を見つめる。
「俺も猫に懐かれた。それに外でネロに会えた」
も猫に嫌われるのか?」
「まーな。ガキの頃から目が合った瞬間威嚇されるわ逃げられるわ怯えられるわ、触らせてもらえたのなんて何年振りだ? もうな、前世か先祖か判らなねーけど、猫に一体何やらかしたんだって位に嫌われてるんだよ」
 余程嬉しいのか、両腕で猫に触りながらが少年のような、あの無邪気な笑顔で告げる。それに釣られてネロも笑うと、猫が膝の上から膝の上へ、不安定の足場の上をそろそろと移動し始めた。
 そうしてネロからへと移った猫は、先程と同じように、の胸に頭を抑えるつけるようにして一声鳴く。
「飼い猫だな」
「首輪付けてないのに判るのか?」
「去勢はされてねーけど、毛並みがいいし、獣臭もしないからな。何より人どころか半魔の俺に対しても全然怯えてねーから、多分仔猫の時から飼われてるんじゃねーかな。ま、元々かなり人懐っこいんだろうな。ちょっとした外出中に構ってくれそうな奴が居たから甘えているんだろ」
 少し切り込みが入った耳を指しながら言ったに、ネロはそんなものか、とどうでもいいように呟いた。猫も猫で、二人の会話などどうでもいいようで、撫でられてはうっとりと目を細めて咽喉を鳴らしている。
 上機嫌に尻尾を揺らしている猫を二人は撫で続けながら、他愛ない話をし始めた。場所が変わっても矢張り始めに来る話題はミルクティーで、今日飲みに行くと伝えれば心の底から嬉しそうな表情を返される。
「よし、来い来い」
「おい毛に塗れた手で頭撫でるな!」
「あー……じゃあ、帰ったらまずシャワーと洗濯だな」
 ネロの拒絶に傷付いた様子もなく、は素直にそう告げる。元々職業が職業なので他人よりもそういった事には割と敏感だという事はネロもよく知っていた。この恋人はつくづく、スラム街という言葉が似合わない男だと再確認すると、二人の会話を聞いていたかのように猫が地面へとすとんと下りる。
 そうしてニ三歩ゆっくりと歩いてから二人を振り返り、ふらふらと尻尾を左右に揺らすと、建物と建物の隙間へと消えていってしまった。
 空を見れば日が大分傾いてきている、恐らく飼い主の所へ帰るのだろうとが言うと、ネロも頷いて立ち上がった。猫に構っていて気付かなかったが、事務所を出てから大分時間が過ぎている。確認するまでもなく、袋の中のアイスクリームはどろどろに溶けているに違いない。
「大丈夫だって、バージルが上手く説得してるさ」
 さて、何と言い訳しようかと考えるネロの心を見透かしたようにが告げる。
「俺がミルク買いに行く時にダンテに会ってさ、ネロが買い物に行ったまま帰って来ない、アイスが溶けるって嘆いてたんだよ。で、それ聞いてたバージルがアイスよりネロの心配しろってブチ切れてたから」
「見習いたい説得方法だけど、心配されるような事には巻き込まれないし、自力で何とかするくらいの力はある」
「それは俺じゃなくてバージルに言えよ。聞かねーだろうけど」
「アンタから言ってもらっても駄目か?」
「駄目っていうか無理」
 ネロから大分送れて立ち上がったは、親友達の顔を思い浮かべながら肩を竦めた。あの双子と長年付き合っている彼が無理と言うのならば無理なのだろう。ならば新参者の自分では不可能だとネロは早々に諦めた。
 紙袋を抱えなおし、よりも少し先を歩くとそれを追うようにして背後の恋人が何もない調子で、次偶然会えたら右手で撫でてやれよと囁いた。
「……嫌だ」
「ネロ」
「違う、アンタが考えているような事じゃない」
 別に悪魔の手で猫に触れて、その結果拒絶されても別にネロはどうでもよかった。通りすがりの猫に拒絶されて心を痛めるほどネロは繊細ではない。しかし、かといって乙女でもないかと言えば、それは否であるのかもしれない。
「こっちの腕は俺の飼い猫専用なんだよ」
「赤い首輪と赤い眼をした、白毛で年寄りの?」
「そう。今俺の隣を歩いてる能天気な猫専用の腕だ」
「それは重畳」
 別に猫に例えられた事に不満はないらしく、にみゃう、と猫の鳴き声を真似られて似合わないと大声で笑う。
 その笑い声はビルの壁に弾かれながら昇り、やがて春の空の隙間へと融けていった。