愛せよ暴走青少年
倉庫として使っているその部屋に交換日記が現れたのは、次の日の事だった。もう少し時間が掛かると思っていたけれど、彼は思ったよりもずっと真面目で律儀な青年らしい。
どのくらい書き込んでくれたかは判らないが、例え一行でも必ず返事があるという事に、年甲斐もなくは喜んだ。こういうのも結構楽しいな、とはにかみながら引き篭り生活の長い男は偶然建物越しに目の合った青年に手を振ったりしてみると、驚かれてカーテンを引かれてしまった。顔が赤かったので、きっと照れたのだろう。彼の思考や感情は言動に非常に出易いようだ。
さて、返事をするかと自室にノートを持ち込み、タトゥーのデザイン画を隅に寄せて薄く纏められた紙の束を広げた。返事はたったの一行だったが、それで十分かと文字の羅列を赤い目で追う。
『って赤い首輪が似合いそうだよな』
「OK, ・。少し落ち着こうか」
自分の名前をフルネームで呼んで自分自身を確認してみる。
最近徹夜ばかりしていたので目がおかしくなったのかもしれない、そうでなければきっと頭だ。自己暗示というより現実逃避を行いながら、中年と呼べる年齢の男はもう一度ノートを見てみた。
文字の羅列に変化などあるはずない。あったらそれは恐怖のノートだ。そうでなくても割と恐怖だが。
何度読み返しても、そこには首輪の文字。
指輪じゃない、腕輪でもない、首輪だ。彼は自分を犬かなにかと勘違いしているのだろうかと考えたが、犬に頬を染める青年なんてちょっと嫌だ。そう結論付けて、はペンを持った。
客商売だから首輪は無理、せめてドッグタグにしろよ。冗談のようにそうやって書き出した文章は、十数行の返事の後に何気ない日々の感想で締めくくられた。後日、本当にドッグタグを買ってこられたら、その時はその時だと腹を括る。それぐらいはアクセサリーの範囲と認識してもいいだろうと一人部屋の中で頷いた。
ノートを渡しに行くと、幸か不幸かネロは部屋に居なかった。仕方なく開いている窓に向かってノートを放り込んだ、それがいけなかったのかもしれない。
次の日、また倉庫の窓辺に置かれているノートを発見する。ネロの部屋のカーテンは空いていたが、部屋の主の姿は無かった。あんな事を書かれた後なので、会ったら会ったで、少し気まずい。
緊張した面持ちでノートを手に取り、その場で広げようと試みる。指先の震えは言い表しようのない、気味の悪い恐怖から来たものに違いない。三度深呼吸をして、覚悟を決めたようにノートを開くと、今度は返事が二行に増えていた。否、増えていやがった。
『ドッグタグじゃなくて首輪って書いただろ。何勝手に変えてんだよ、どうせ出すならリードか鎖も欲しいぐらいリクエストしやがれこの(以下中指おっ立てながら言う台詞』
真っ赤な顔で交換日記から始めようと言っていた可愛い妖精さんが書き込んだFワードやその他諸々に、中年のおじさんの心にこの間見たあの子は幻か、それとも今の状況が幻なのかと誰かに問いたい気持ちが溢れる。ついでに、何故かこちら側がボトムに認定されている事態にも今更気付いた、何となく自分が突っ込まれる側だよなという事には薄々ながら感付いていたが。
泣いても誰も自分を咎めもしないから出来れば泣きたい。崩れ落ちそうになる膝を堪え、は瞳にうっすらと涙を溜めていた。相変わらず部屋の向こうは無人で、ネロが帰ってくる様子はない。多分隣の店の一階で文句を垂れながら店番をしているのであろう。しかし、直接会いに行くのは気が引ける。第一この後にまだ店の予約が入っているのだ、泣いている暇はない。
「新規の客居るしな、愛想良くしねーと」
これは逃げているんじゃない。仕事第一。俺の優先順位は間違っていない。
ぼそぼそと薄暗い倉庫の中で呟く中年の姿は気味が悪かったが、本人にしてみれば結構重大な事態に発展しているのだ。俺はまだ大丈夫、そう言ってノートを閉じるとはデザイン画を引っ張り出して仕事に向かう、今日来る予定になっているのは娼館の女性が二人、彼のスタジオを贔屓にしてくれる女性が同僚を連れて来るという。
蝶や髑髏、鳥に花に、女性の好みそうなフォントのデザイン集を用意して、もしかしたら他の娼婦と違った物を所望される可能性もあるのでそういう系統の物も少し準備した。またアルコールとドラッグをしばらく辞めるよう説得をしなければならないだろうか、それが一番面倒だ。そうやって仕事の事を考えると、心が軽くなった気がする。
一階の店舗に行けば、タイミングよく二人の女性と鉢合わせた。一人は見知った女性で、店の売れっ子に相応しい容姿をしている。隣の、まだ少女と呼べる年齢の女性は物珍しそうに店内を見て回っていて、に気付くと驚いた表情を浮かべた。
大体新規の客はこういった顔をする、スラム街に店を構えている面に見えなかったのだろう。他の同業はもっと厳つかったり薄暗い男が多い。
さて仕事だと気持ちを切り替え、営業用の顔と声で二人の女性と接した。ドラッグはやっていないが、アルコールは少々渋っていたので当日とその前後を控えればいいと説明すると納得してもらえた。デザインの持ち込みは無かったのであらかじめ用意しておいた物を見せると、そこでは仕事から一時解放される。少女への細かいアドバイスは同業の女性に任せた方が間違いない。
「あ、そうだ店長。私も今度また入れたいんだけど」
「んー。何処にだ?」
「腕。このデザイン気に入ったわ」
差し出された紙はつい最近が描いたデザインで、まだ誰の肌にも入れていないものだった。それを告げると女性は嬉しそうな顔をして、時間が取れたらすぐに来るとはしゃいでいる。
オリジナル、一番、限定、彼女たちが好む言葉はこういったものにも反映された。
その隣で連れの女性が少し困っているようだったので声をかければ、こちらは好みのデザインが無かったらしい。どういった物を入れるかも決められないようなので、漠然とした好みを聞いてその場でラフ画を起こしてみると徐々に意見が固まってくる。
紙の上に鉛筆を走らせながら他愛ない会話を何気なく振れば、流石そういう店に勤めているだけあって彼女たちは話が上手かった。毎晩違う男が金を払うに値する女だ、それを当然と思っている傲慢さと誇り高さがには眩しく感じる。
「店長も店に来てくれればいいのに、サービスするわよ」
「そのうちな」
「そう言って、一度も来てくれたことないじゃない」
「中年は中年なりに忙しいんだよ」
その辺の野郎よりよっぽどいい男なのにと続けられた言葉に適当な誠意で返した。その後で、今彼女たちの店に行けば浮気になるのかなと漠然と考えた。はたと思い出す、そう言えば自分はネロという青年と付き合っていたのだと。
どうも駄目だ、自分はその手の感情が酷く希薄だ。すぐに忘れて、しかもそれをどうでもいいと思ってしまう。
若い頃から今まで付き合ってきた女も男も、の無頓着な淡白さにいつしか冷めて別れていった。非行動派で沸点の高い男は執着心が薄く、自分からアクションを起こす事が滅多にない。
勿論、心動かされる存在も少なからず存在する、それが仕事や、親友達であった。
「あ、店長ごめん! そろそろ帰らないと」
「はいよ。じゃあ、幾つかデザイン上げておくから、また時間空いた時にな。次来れる日が判ったら電話」
「はーい。じゃあね、店長」
軽い挨拶をしながら魅力的な胸や尻を揺らしながら歩き、店の入り口を開けた二人の女性からそれぞれ投げキッスを受け取る。彼女達なりの誠意の表れなのであろう、右手を上げて応えておくと、彼女達が消えた扉の向こうの路上に見慣れた青い影を発見した。
ネロだ。買い物帰りなのか紙袋を抱えて立っている。目が大きく開いていて、サングラス越しで微かに判る程度に顔が赤い。初心だな、とそんな考えが頭の端を通過していったが、次に起こされた行動によってそれが違う事が証明された。
「な、にやてんだよ、アンタ!」
怒号と共に破壊された店の扉。投げ捨てられる紙袋とその中身。ネロ、今度はお前か、はその言葉を飲み込んで昼過ぎの明るい光の筋が届かない事務机の傍にまで移動する。空から絶えず降ってくる陽光を彼は嫌っていた。
それを後退と判断したのか、肩を怒らせた青年はずかずかと店の中に入ってくる。独占欲と執着心と嫉妬と憤怒、激しい感情に目が釣りあがっているように見えた。指摘すれば火に油だと判っているは何も言わずに机に腰掛ける。それがネロには余裕のある大人の態度に見えて、思いつく限りの言葉で彼を罵った。
純粋で純情な青年だ。声という媒介を通して吐き出される気持ちと感情を窘める事無く静聴していると、ついに胸倉を捕まれる。恋に必死な青年に対しなんて酷い大人なのだろう、第三者の視点では自分を評した。
「誰だよ今の女」
急激に声が冷却されていくのを感じ取る。これは本格的に怒らせたな、と考えながら口を開いた。情緒不安定な青年は多分事実を信じようとしないだろうが。
「客だよ」
「信じられるか」
きっとネロは店の男に投げキッスをする客なんてこの世に存在しないと思っているのだろう。何と言っても付き合い始めが交換日記という、とんでもない箱入りだったのだ。書いてきた内容は兎も角。
捕まれた胸倉は片手のまま軽々と持ち上げられて、踵、そして爪先までもが宙に浮いた。着ていたシャツが襟足に食い込んで痛いなんてものじゃない、下ろして欲しいと頼むと床に投げ捨てられてサングラスが吹っ飛びマウントポジションを取られるというデジャヴ。
「もういい。犯す」
異星の妖精さんの裏側は性欲の鬼か。とんでもなく極端な結論がネロの中で出たようだった。行動は癇癪を起こした子供のそれなのに、目は本気である。
非処女とはいえ自分の尻の穴の心配も勿論したが、それ以上にこの青年が正しい性知識を持っているかどうかが非常に気になった。前述した通り、ネロはそういう事に関して些かならず疎い妖精さんなのだ。
重大とも、どうでもいいとも取れる心配をしていると、のシャツに掛かっていた手が止まる。そこで彼は自分の予測がほぼ正しいと直感した。ネロはチェリーだ、しかも完全な無知の。上着を軽く肌蹴させただけで下肢にすら手を伸ばそうとしないのだから、もしかしたら自慰の経験すらないかもしれない。
「あー……取り合えず、ベッド行くか?」
この先をどうしていいか判らずに止まっている手を握り尋ねると、ネロが何を言っているのか判らないという顔をした。犯る以前にそこからか、言いたい言葉を全部飲み込んで平静を装う。多分今の状況、ダンテなら涙を流しながら瀕死の爆笑、あのバージルですら肩を震わせて笑いを堪えなければいけない展開だ。
Fワードを知っているだけのチェリーなど、恋愛戦争の前では経験不足の未熟な新兵に他ならない。否、相手によっては兵としても認められないかもしれない。顔がいいのに勿体ないと、にしては珍しく積極的に相手に絡んでみる。気分は恋人というより、教師のそれに近かったが。
「床でヤルと後で響く。あと外から見えるぞ、俺は別にいいけど」
先程破壊された入り口を指せば、真っ白な青年の肌がまた赤くなる。今度こそ、それは羞恥からだった。
此処は陽が燦々と降り注ぐ活気ある大通りではなく、スラムの、しかもその中でも治安が悪い陰鬱な場所だ。けれど人通りも少なからず存在する、彼の店に来る客や、酔っ払い、薬漬けの頭のイカレた人間、あと時々悪魔。一番最後のは扉が閉まっていようが関係ないかもしれないが。
「どーする?」
は選択権をネロに放り投げた。顰められる形のいい眉、あんたはどうでもいいのかよ、と僅かに上ずった声で問いかけられ、その通りだと肩を竦める。
そんな態度の大人に失望しただろうかと見上げてみると、ネロの目が濡れているように見えた。男は軽い頭痛と眩暈に襲われる。怒った人間は適当に受け流せるが、泣いている人間は苦手だった、慰め方が判らない。
「ネロ……」
「俺はアンタが好きなんだ」
だから俺以外を見るな、俺以外に笑いかけるな、俺以外の存在を認識するな。
暴君というよりは、幼子の理屈だ。好意を寄せる相手は自分の所有物で、自分の思い通りにならなければいけない。それが当然なのだと。つまりはそういう事なのだろう。別には構わなかった、そういう愛しかたというのもあるだろうと納得し、ネロはそのタイプなんだと理解した。
「俺だけを愛せよ」
迷子の子供みたいな顔で吐き出された言葉には同じ言葉での返事を諦める。代わりに、右腕を伸ばして青年の頬に触れようとしたが、残念な事に指先すら掠りもしなかった。その指先に温かいネロの手が絡み付いてくる。
「愛してるって、言ってくれ」
命令ではなく懇願の言葉は、普段は自信に満ちた、少し不満顔をしている青年からは考えられない程弱弱しいものだった。他人の愛し方が判らない人間が持つ声色に、持っている感情の根底は同じながら正反対の方向に育ってしまった男の胸が痛んだ。
愛してる、そう言って欲しかったのか。
言われてみれば、青年の恋に付き合い始めてから、まだその言葉を一度も言っていなかったと気付く。それどころか、今まで付き合ってきた人間に言った記憶すらない。
ああ、けれど、若い頃の自分もそんな欲求があったな、と過去を振り返ると、意外にもその感情は死んでいなかったようでミルクを強請る赤子のように激しく声を上げ始めた。余程腹を空かせていたのか、その泣き声は耳を塞ぎたくなるほど煩い。
「ネロ」
塞いだ所でどうしようもないに決まっているそれを鎮めるために、青年の名を呼んで、その名前を心に刻む。隣に住んでいる双子で半魔の親友、最初から最後まで自分一人で片付けられる仕事、そして歳若くて可愛らしい恋人。
彼の大切なものがまた一つ増えた。
「ネロ、愛してる。不安にさせてごめんな、本当に、心からネロを愛してる」
「……ん」
こくり、と小さく頷いた青年は指を絡めたまま俯く。恥ずかしかったのだろう、普段の彼ならまず言いそうにない台詞だろうから。
「俺もの事、愛してる」
「……お前、本当可愛いなあ」
「ばっ! 可愛くなんかねえよ!」
「なんつーか、腹一杯になった」
「あってたまるかそんな事!」
「精神的に、って事だよ」
途端に不機嫌になってしまった青年はコートに付いた埃を払うようにして立ち上がった。男も一緒に立ち上がり、先程ぶちまけた紙袋の中身を拾い集めネロに渡すと、一つだけ、丁寧にラッピングされた袋を突っ返される。それ程大きくないが少し重い、手の上に乗ってしまう程度のものだ。
それはアンタにやる、そうして押し付けられたプレゼント、だと、無理にでも思いたい、物質。嫌な予感が隠し切れないはそうでない事を願いつつ中身を確認する。
幅広の首輪。鋲がびっしりと並んだ赤い革製の首輪だった。ご丁寧に内側にはの愛称が刻まれている。センス自体は悪くない、寧ろ好む部類に入ったのだが。
「ネロ、これはアレか。俺に四つん這いになってケツを振れって催促か」
「はあ?」
何言ってんだこの中年。青年の瞳はそう言っていた。こちらも言い返したい、チェリーで妖精さんなネロ坊やは一体何を考えて自分に首輪を贈るのだと。
しかもよく見ると犬用だ。人間用の物を持ってこられてもそれはそれで困るのだが。
「だってアンタ、年中フラフラしてるって聞いたし。繋いでおこうかなって」
「判った。言いたい事は色々出来た。取り合えず一つ言わせてくれ、俺は基本引き篭りだ」
「……そういや、そんな事言ってたな」
「だろ? 首輪なんて必要ねーよ」
言いたいことがそれか、等というツッコミは残念ながら受け付けない。
多分ネロの情報源は隣に住んでる赤い阿呆だ。双子の兄に切り裂かれて今すぐ死ね、心の中でだけ祈っておく。
しかし、フラフラしているからといって、首輪で繋ぐという思考の青年も空恐ろしい。箱入りで妖精さんなのは理解していたが、まさかここまで酷いとは思わなかった。それも独占欲の現われ、で納得してしまうの思考も大概ではあったが。
「でも、折角買ったんだから着けろよ」
「いや返品して来いよ」
「に似合うかなって思って買ったんだし、いいだろ」
人の話を聞かずに笑う綺麗な青年。彼に、ああ、可愛いじゃないか畜生と感じた瞬間、中年の敗北は決定した。大人しくしていれば青年の手によって首輪が嵌められて、その表情は物凄く楽しそうである。
畜生、やっぱり可愛い。
恋に腐った中年は自分の頭を叩き割りたい衝動に駆られた。
「勝手に外すなよ」
「はいはい」
「外したら怒るからな」
「判ったよ。ほら、帰りな。おつかいの途中だろ」
ぱん、と青いコートに包まれた肩を叩けば、青年が慌てふためきながら隣の事務所に帰っていった。本当に自分が買い物途中だという事を忘れていたらしい。
綺麗になったばかりの窓の向こうでは紙袋を抱えてキッチンに走る青年の背中。拾った品物の中に生肉とアイスがあった事を思い出したは苦笑いしてサングラスを拾い上げる。歪んでいた。
「参ったね……これ気に入ってるんだけど」
参ったといえば、この首輪。最早客商売とかはどうでもいいけれど、シャワーの時も着けていなければいけないのだろうか。裸に首輪は変態の類義語しか形容の仕様がない。一時のダンテの乳バンドのように。
「後で訊くか」
あの様子ではネロも直に部屋に戻るだろう。そこをとっ捕まえればいい、そう決め付けて、は事務机に乗っかっている電話のダイヤルを回す。
妖精さんが破壊したドアの修理を呼ぶためだった。