恋せよ純情青少年
本当にやる事がないので何時の物かも判らない雑誌を斜め読みしていると、割りとその手の雑誌にありがちな恋愛診断のチャートが目に留まった。イエスかノーか、簡単な問いかけに簡単な返答をすれば、自分が恋愛においてどんなタイプか判定してくれるという暇潰しにもならない紙切れである。
「くっだらねえ」
診断なんかいらない。ネロの理想の女性はキリエ一人だったからだ。
しかし、同時に違う感情も芽生えた。キリエは理想の女性だけれど、それは云わば理想の姉、この世の女神と置き換えたほうが適切な表現方法であって、決して一人の女性、つまり恋愛対象として見てはいない。
となると、キリエによく似た女性を好きになるのだろうか、あり得ない、キリエは聖母のように慈愛と美しさに満ちた完璧な女性で、彼女と肩を並べられる女はこの世に存在しないと彼は強く信じて疑わなかった。
キリエに勝る女性なんて存在するはずがない、と舌打する。そうなると一生彼女は作らないのか。それも嫌だ、ネロだって年頃の青年だ。恋愛の一つや二つは経験したい。けれど、どんな女性が好みかと問われても、理想の相手が思い浮かばなかった。取り合えず、容姿は綺麗だったり可愛い方がいいと漠然とした理想が浮かぶ。
そもそも自分の理想とは何だ、暇人ネロの悩みはそこから始まった。彼は閉鎖された環境で育ち、教団勤めが長く、友人が居ない為、年頃の異性というものをあまり知らないで生きて来ている。
取り合えず手近な女性から考えてみて、即行浮かんできたのは最近出会ったトリッシュやレディ。しかし脳内会議満場一致の却下。彼女たちは目を見張るような美人だが、ダンテやバージルでも歯の立たない女性を恋愛対象とするにはネロには恐過ぎた。
ダンテに無理矢理連れて行かれた如何わしいバーに居る女性も却下。露出が高く甲高い声をした女性は好みではない、化粧と香水をふんだんに使った女性は寧ろ潔癖症のあるネロの好みとは間逆の位置に居る。
「……顔とか胸も大事だけど、性格の相性も問題だよな」
明るくて、芯が強くて、自分に余り干渉しない女性。うん、とネロは一つ頷いた。
自己主張の激しい女性や、口煩い女性は自分には合わない。合わせるのも面倒そうだと考え、思考はどんどん発展していく。
自分は短気だと自覚しているから、大らかな性格で、細かすぎる事がない方が良い。適度に放置してくれるような、出来れば年上の、少し自分を甘やかしてくれるような。
「って、何考えてんだよ!」
好みがリアルに形成されそうになり、ネロはたまらず雑誌を投げる。自分の理想の相手がそうそう居てたまるかと今までの時間が完全に無駄だという内容を口走りながらソファに倒れ込むと、静かに事務所のドアが開く音を聞いた。
「なんだ、か」
「お、ネロ。久し振り」
やって来たのは依頼人ではなく、つい先日知り合った、隣でタトゥースタジオを経営している半魔の男だった。ソファの上で寛いでいるネロを見つけるとミルクティー飲みに来いよと笑い、ダンテかバージルを所望する。
生憎一人は仕事、一人は昼寝だと告げるとサングラスをしてても判る程残念そうな顔をして、右手に持っていた紙切れをひらひらさせた。念の為その正体はと問いかければ、この間壊した窓と壁と床の請求書らしい。
「受け取らないと思うけど」
「あー……まあな」
あのおっかないレディからの取立てにも動じない二人、というか主にダンテに、こんな男が請求しに行ったところで払われるなんて思えない。それどころか踏み倒していそうだ。
「暇なら何か飲むか? 一応客だし」
「すげーな、この店でそんな優しい台詞聞いたの初めてだ」
「マジかよ。そっちの方がスゲーよ」
ありえない、一応客商売だろうが、と此処には居ない店主たちに愚痴ると、その親友である客は力ない笑みを浮かべる。自己申告によるとは半魔らしいが、この店に居る半魔よりも余程常識人で、人間性にも問題がない。この男の持つ大らかさは暫しスラム街には適していないと感じたが、ネロは口に出さなかった。
自分が寝転んでいたソファを空け、インスタントのコーヒーを二つ作り、座って待っていたに渡すと何故か感動される。それは恐らく出されたコーヒーにではなく、客を持て成す事の出来る従業員がこの店に勤めているという感動なのだろう。これを持て成すという分類に分ける事がが出来れば、の話であるが。
泥水のような安物のコーヒーを啜り、二度目となる茶会の合間に、ネロはふと、先程自分が考えた理想の女性像を引っ張り出してみた。
は割と陽気な性格みたいで、懐が大きいというか、店の一部を破壊されても溜息と苦笑で済ませてしまう心配なくらい大らかな人間のようだ。普通の人間なら避けるであろうキレる寸前のネロを店に招待して茶菓子を出し、延々と続きそうな愚痴を嫌な顔一つせず聞いてくれる。ガキ臭い意見かもしれないけれど、ネロの話を聞いて努力してるんだなと褒めてくれたし、ケーキもくれた。約束したミルクティーも飲みに来いと誘ってくれる。
何となく、この男は相手を立てるタイプだなと思った。自分とは正反対だと思う。
「なあ、。サングラス外してくれ」
「おー、どうした急に」
そうやって要求すると、男は軽く応えて少し値の張りそうなサングラスを外した。嫌がる素振りをしないから、ダンテの無精髭のようにこだわりがあるわけではないらしい。ダンテはネロとバージルから髭を剃れと再三要求されているにも関わらず、男の嗜みだとかいって剃ろうとしない。
「へえ、結構綺麗な顔してるんだ」
「んー、不細工じゃあねーな。ネロみたくすげー美人でもねーけど」
「別に、俺は美人じゃない」
「ははっ、ぜーたくな奴」
余計な遮蔽物を取って笑っているの顔は、想像していたよりもずっと整っていた。中年ではなく年齢不詳っぽい、十代と言われても三十代と言われても通るような摩訶不思議な容姿をしている。
何となく、失礼な話ではあるのだが、彼は生まれてから死ぬまでこの容姿を保っていそうだった。それこそ、六十、七十になってもずっとこの姿で居続けそうな雰囲気がある。
「目、赤いんだな」
「赤いっつーか、生まれつきメラニンがないんだよ。赤く見えるのは奥の血液が透けてるだけ、本当は無色透明」
「あ。アルビノってやつ? そう言えば髪も白いよな」
「そ、先天性白皮症。サングラス掛けていいか?」
素直に頷くと、はサングラスを掛けて眼球を守った。動物のアルビノは紫外線に弱くて目に異常が出やすいんだっけ、と何処かで得た知識を掘り返す。彼が引き篭りを自称する理由は冗談や自分に対する揶揄ではなく、その特異な体の所為なのかも知れない。
サングラスは単なるアイテムではなく必需品だと知ったネロが小さく謝ると、一体何の事かと驚いたような顔をして、すぐに理解したのか沈みかけた雰囲気を笑い飛ばす。一頻りそうした後に笑いを引っ込めると、今度は優しい笑顔でありがとうと言われた。綺麗な、人を惹きつける笑顔だった。
その不意打ちに胸が高鳴る。意識のし過ぎだ、冷静に考えればいい。
目の前に座っているのは男で、しかもいい歳したおじさんだ。好みのタイプだけど。色気も可愛げもない中年男性だ。でも笑顔には愛嬌がある。自分は至ってノーマルで、男なんてこれっぽっちも好きではない。でもは嫌いではない。恋愛対象はあくまで異性で、男で中年は完全に恋愛から対象外……。
「何やってるんだ、」
「よお、ダンテ。随分遅い起床じゃねーか」
全く可愛げのない、熊みたいな赤い男の声が上から降ってくる。
ネロが馬鹿な脳内論争をしている最中に起きてきたダンテを見上げ、がからかうように親指で時計を指した。今の時刻はもう昼と言っていい。
「寝坊くらい大目に見ろよ、朝方まで仕事してたんだ」
「そりゃ失礼。お疲れさん」
寝起きの親友とのやりとりにの表情が明るくなる。それは何だ、この前の請求書、燃やして捨てろ、出来ない相談だ髭を剃れ、揃いも揃って髭の良さが判ってないな、そんな大人たちの会話を傍で聞いていたネロは脳内会議なんて早々に止めて不貞腐れた。
何でダンテばかり見ているんだ、さっきまで俺に話しかけていただろ、おっさんと不毛な会話するくらいなら俺と喋った方が楽しいだろ。そんな思考がぐるぐると頭の中に渦巻いて煮詰まっていく。
ついでに、さっきは不覚にもときめいてしまったが、別に好きな訳じゃないと強く言い訳して、でもがダンテと会話をしているのを間近で見聞きするのは腹が立つと、しなくていいものを若くて青臭い自分の気持ちを指差し再確認してしまう。
「ったく、お前等はどれだけ俺の城を破壊すれば気が済むんだ」
「悪い悪い」
「言葉と態度に誠意ってもんがねーよ。今日は帰るけどバージル居る時にまた来るぞ」
「無駄だと思うけどな、それにバージルなら一週間は帰らないって言ってたぜ」
「……本当か、ネロ」
穴が開くくらい睨んでいた男が振り返り、驚いたような顔をするネロに首を傾げる。一週間帰らないって本当か、ともう一度尋ねればネロはごく自然に首を横に振った。それは、ダンテとがそれぞれ持ち合わせているものを天秤に掛けた結果である。
はっきり言って、勝負は一瞬。完全なる圧勝だった。
「夕方には帰るって」
「ありがとう。おい、ダンテ。俺に嘘吐くなよ」
「Hey, KID! 家主を庇おうって気にはならないのか」
「あると思ってるアンタの脳味噌がおかしい」
「ネロは俺の味方だもんなー?」
手厳しい発言にダンテは肩を竦め、はコントみたいだと笑った。ダンテとのやり取りを笑われたネロは少しだけ不機嫌になったが、このその笑顔を正面から見て頭を撫でられると何も言えなくなってしまう。
少し頬が熱い。体温が上がってどうすればいいのか判らなくなる。頭の中が真っ白になって目の前の男を凝視するしかない。最悪だ、俺が好きな人間の最低ラインは女性のはずなのに。そう否定しても、恋した心はどうしようもなく素直である。
「……っ」
「あ、ネロ、顔赤……っうお!」
若さゆえか、それからの行動は速かった。形振り構わず右での腕を掴むと、与えられた部屋まで一直線に歩いていく。擦れ違う合間、珍しく驚いた顔をしているダンテを無視し、うろたえているの言葉も無視した。
部屋のベッドに中年男性の体を放り投げ、硬直している体に跨ってマウントポジションを取る。投げられた衝撃でサングラスが外れ、鮮やかな真紅の瞳がネロを見上げていた。子供のような怯えもないが、大人のようなからかい半分の余裕もない、現状に全く危機感を抱いてない目だった。
「どうした、急に」
「、彼女いる?」
「いや、いねーけど」
「じゃあ、俺と付き合えよ」
あまりにもあまりな、天国のクレドが自分の不甲斐なさを泣いて土下座しそうな告白の仕方に、の時間が止まる。しかし、ネロの気は短かった、本人が自覚しているほど短かった。
数秒後にはイエスかノーかさっさと言え、と輝く右腕を振り上げていた。あるようでない選択肢に、雲の上のクレドが重ね重ね侘びているに違いない。
「さっさと首を縦に振るかイエスって言え」
変化していく選択肢。右も左も同じ答え。一択しか選ばせる気がない、ここまで来れば最早清々しいまでの脅迫行為以外の何物でもなかった。
「あー……俺は別に構わねーけど、ネロは、こんなおっさんでいいのか?」
「あんたがいいんだよ」
三流恋愛小説みたいな陳腐なやりとりに思えたが、ネロの表情に冗談の要素はない。青臭いながらも本気の台詞に、は綺麗な笑みで返し、ベッドの上で両手を挙げた。
若くて青くていつも全力の青年に付き合うのもいいだろう、基本自分は常に暇だ、その思いは全て胸にしまい、好きにしろ、という意思表示だけを伝える。
途端にネロの顔面が上気していった。正気に戻ったらしい。肌が白い分、その赤は非常に目立っていたが、渡されたサングラスを掛けるとそれほど気にならなくなった。筋肉質な、猫科の肉食獣のような若い体が上から退いて、部屋の隅からノートを持ち出してくる。
何処にでもありそうな唯の新品のノート、それを無言で差し出しす、というよりも突きつけたネロには首を傾げた。この青年の意図が見えなかったからだ。
「何だよ。このノート」
「何って、交換日記だろ?」
「……こーかんにっき」
「付き合い始めたらまず交換日記から始めるんだって、クレドが言ってた」
瞬間、呆然と自分を見る恋人になった男に、ネロは不審そうに眉を顰めた。ネロ自身としては、変な事を言ったつもりではなかったのだ。彼の内側にある世界は、恋人になったら交換日記から始めるのが常識だっただけなのである。
日記なんて書いたことないから書き方が判らない、アンタが先に書いてくれ、と言われて手渡されたノート。俺も書いた事なんてない、いい歳した大人が交換日記なんて、そんな嘆きよりも、もっと先立つ感情が芽生えた。
「付き合うことは言い触らしてもいい。でも日記の事はダンテとダンテとダンテとバージルに、内緒な?」
「当たり前だ! あんなおっさんたちに日記見られるくらいなら死んだほうがマシだ!」
矢張り恥ずかしい物だという自覚は存在するらしかった。でも交換日記して親密な関係にならないとキスも出来ないんだよな、と自分の世界で呟いている思案顔のネロが、には化石や天然記念物ではなく、どこか遠い星からやってきた白くてふわふわした小さな妖精さんに見えた。
ああどうしようツボった何なのこの子すげー可愛い、偏りまくった知識に苦悩しているネロを見ながらそんな事を考えても罰は当たらないだろうと開き直る。ベッドの上で二人の男はそれぞれの理由で頭を抱え、湧き上がってきた感情を抑えるのに必死にならざるをえなかった。